e-kyoto「一言コラム」

ガイドブックには載っていない、スキマ情報をご紹介していきます。

プロジェクションマッピング・二条城

8月4

nijo   祇園祭五山の送り火との間に新たな夏の風物詩とした登場した「京の七夕」(11日まで開催中)も、今年で4回目を迎えました。
最初の日曜日は生憎の雨にも関わらず、たくさんの浴衣姿と傘の花が堀川会場を彩っていました。
堀川の東側にある京都国際ホテル内の屋台村では、ハワイアン生演奏とフラダンスの舞台を楽しみながら、冷房の利いたテーブル席で食事ができるので、家族連れには堀川会場がお奨めかもしれません。
一方、堀川の西側で夜間に一部開放されている二条城では、二の丸御殿の形状に合わせてプログラミングした映像を投影するプロジェクションマッピング「荘厳なるあかり」が行なわれています。
城内に反響する音楽に合わせて、まるで車寄が動いているかの様に見えたり、壁面に花火や紅葉が散ったり、文字が浮かんだりする度にさざ波の様な歓声が挙がります。
国宝である建築物の、豪華な欄間彫刻を活かした投影によって浮かび上がらせる事で、その対象となる建物や事物に新たな価値を生み出し、保存継承に繋げていく事がこの「プロジェクションマッピング」という最先端技術の役割なのだろうと理解しました。
期間中、夜間の二条城は無料で入城できるので、代わりに一口募金(200円毎に記念カンバッチ進呈)をしてきました。
いち早く動画でご紹介したいところですが、皆さんには是非現地に足を運んで生の迫力を楽しんで頂きたいので、公開はまた後日に。

能楽・金剛流と宝生流

7月14

noh 京都を拠点に「龍門之会」を主宰する能楽・金剛流の若宗家・金剛龍謹さんと、東京で「和の会」を主宰する宝生流宗家・宝生和英さんの、流派を越えた合同演能会がありました。
それぞれ「謡宝生(うたいほうしょう)」「舞金剛(まいこんごう)」と呼ばれるのにふさわしい演目で、鍛え上げられた若い二人の声は鋼の様に美しく、橋掛かりの揚幕の奥から観客を魅了していた様に思います。
日本の伝統文化や芸能が外国人や日本の若者にも受け入れられているとはいえ、芝居やライブを観に行く感覚で能を観に行くという人はまだ十分に多いとは言えず、普段から接点の無い人にとっては今なお敷居が高く感じている人も多いかもしれません。
しかしながら不思議なもので、突発的に表れて一世を風靡す様な流行は、数年経てば忘れ去られてしまうのに、一見重くてとっつきにくい印象の伝統芸能の世界は、何百年という年月を生き延びているのも事実。
その違いがどこにあるのかと考えてみた時に、その文化を「守りたい」と願う人々が演じる側にも観賞する側もあるという事ではないか、と思いました。
そのどちら側の人間も、世代交代を繰り返していきます。変えてはいけないこと、進化した方が良いことを模索しながら、若い二人はこの先も新たな境地と支持者を開拓していかなくてはなりません。
これから先も、金剛流と宝生流のコラボレーションに注目していきましょう!
能に触れてみる一つの入口として、まずは能面・能装束講座で能楽堂の中に入ってみる事から始めてみてはいかがでしょう?
能「小鍛冶」に登場する刀匠・三条小鍛冶宗近と共に名剣「小狐丸」を打った「相槌稲荷」は、京都の三条粟田口にあり、また、祇園祭の長刀鉾の先に付けられ疫病邪悪を祓う長刀も、宗近の作と伝わるそうです。

2014年7月14日 | 芸能・アート | No Comments »

樂美術館『定本 樂歴代』

7月8

raku 京を代表する陶芸師・樂吉左衛門家の歴代の作風が知りたくて、樂美術館を訪れました。
樂歴代」との表題通り、展示は初代の長次郎から始まるものと思っていたら、最初に出迎えてくれたのは、田中宗慶という人物の茶碗でした。
田中宗慶は初代・長次郎の妻の祖父とされ、樂家にとっては「家祖」という位置付けになっていました。因みに長次郎の父・元祖「阿米也(あめや)」は中国・福建省から渡来したとされる陶工で、楽吉左衛門家の2代目を嗣いだのは長次郎の子ではなく、田中宗慶の次男・常慶です。
あえてまずは茶碗を眺めて観たままに感じ、それから解説、銘を見るようにして、歴代の楽焼を観覧してみます。
初代の特徴を踏まえながら、時代の流れを汲んだ作風を表したり、逆にまったく反対の価値観を編み出してみたり、それぞれに創意工夫や葛藤が滲み出ているようです。
450年の歴史を追いながら、そして当15代まで辿り着いても…長次郎の作品が見当たらない!と思ったら、別の部屋に銘「面影」が佇んでいました。その姿はまるで土からそのまま出てきたかの様な、他の歴代茶碗とも違う存在感を放っていました。
轆轤を使わず「手捏ね(てづくね)」によって成形されるため、代々の当主はその手から伝わる感触で歴代の息遣いを感じてきた事でしょう。
「聚楽焼」から始まった樂焼は、現在でもなお「今焼」であり続けているのですね。
本展覧会では、樂家と互いに影響を受け合った本阿弥光悦の作品の他、樂家妻女の作ではないかと言われる尼焼、三代・道入の弟で堺にて樂茶碗を焼いたとされる道樂、四代・一入の庶子で玉水焼を開いた(現在は閉窯)一元という人物達の存在にも注目です。

2014年7月08日 | 芸能・アート | No Comments »

「京町家空感 千香月(ちかげ)」

6月16

chikage 相国寺、同志社大学の近くに佇む京町家『京町家空感 千香月(ちかげ)』さん。
大正時代の町家をリノベーションし、より寛げる空間へと生まれ変わりました。

格子戸の扉を開けると、石畳が敷かれた路地が中へと続いていきます。
1階では『草木染めのうちかざり展』を開催。
自然の色合いをいかした草木染めのうちかざりと町家の空間を楽しんでいただけます。
また、予約制で『タロットセラピー』というものをされています。
色と香りのタロットで心を癒し、暮らしをより楽しく豊かにする、気楽に楽しんでいただけるカウンセリングです。

オーナーのお人柄と町家の佇まいが織りなす癒しの空間に、ぜひお近くにお立ち寄りの際はお訪ねください。
京町家空感 千香月(ちかげ) http://www.iroka-chikage.com/

わたせせいぞうが描く京都

6月10

watase 「この人の絵からは、いつも風が吹いてくる」。
漫画家であり、イラストレーターでもある、わたせせいぞうさんの絵を見るといつもそう感じます。

現在京都駅ビルで、画業40周年を記念した展覧会が開催されています。
華やかな色遣いで、グラフィックデザイン風の都会的な作風。さわやか過ぎるくらいに純愛なカップルや家族が登場するわたせ氏の作品ですが、鎌倉や京都等の四季の光景を鮮やかに紡ぎ出す作風でも知られています。
それは、京都が日本の四季折々の美しさをひときわデフォルメ(強調)している町である事と共通している様な気がします。
最新刊として紹介されている『アンを抱きしめて 村岡花子物語』は、朝ドラとの関連作品としての話題は勿論ですが、明治期以降の日本の風景をわたせ氏が描くとこうなるのか、と感じるはず。
とりわけ、空襲や戦後の廃墟を描かれる事は、とても珍しい事なのではないでしょうか。

ぜひ、大きな窓からの風を感じるように、原画を間近で観てみてください。

2014年6月10日 | 芸能・アート | No Comments »

鴨川をどりとパンフレット

5月13

kamo 五月晴れの週末は、「鴨川をどり」の会場、先斗町歌舞練場へ。
誘ってくれた幼馴染が、祖父の代から贔屓にしているというお茶屋の女将さんと挨拶を交わす傍らで、もう一人の友人は、着付け教室に通っているためか、来場客の着物姿が気になる様子。
今回のパンフレットを開くと、演目概要の英訳のほか、長唄や楽器についても解説がついていました。また、花街のおどりとしては珍しく、蛍光塗料を使った暗闇での演出には、会場からどよめきも。
やはり芸妓さん、舞妓さんが着る衣装は色合わせも柄ゆきもはんなりとしてい毎回感動します。伝統とモダンのさじ加減が良く、日々の稽古で鍛えられた美しい身のこなしと相まって本物感があるのです。
一面の藤が、かんざしの様に彩るフィナーレで、舞妓さんが観客席に投げてくれた手ぬぐいには、数々のサインのほか「くまモン」のおちゃめな落書きもありました。
毎年ではないけれど、花街のおどりをちょくちょく観に行っている間に、我が家にもパンフレットやお土産の小皿がいつの間にか増えていました。
改めて数冊見返してみると、数年前にはあどけない舞妓だった子が芸妓となっていたり、ベテランの芸妓さんや地方さんが今でも「しゅっとした」佇まいで舞台を踏んでいたり、はたまた名前を見かけなくなった人もあったり。
その中には、芸妓とは別の道に進んだ舞妓さんもあるかもしれませんし、また、不況や主人の高齢化で廃業してしまったスポンサーもあるかもしれません。
毎年踊りのパンフレットが発行される間に、各花街の内外でも色んな物語があったのだろうと想像します。
来月には、恒例の「京都五花街合同伝統芸能特別公演」が開催されます。

遊狐草舎「現代の雄勝硯」展

3月24

yuko 「書」を生み出す硯・筆・墨・紙は「文房四宝(至宝)」と呼ばれ、そのもの自体も観賞の対象となってきました。
室町時代から600年もの歴史を誇り、仙台藩主・伊達政宗にも愛用され、かつては日本製硯の約9割を生産していたという宮城県石巻市雄勝町は、東日本大震災による津波で硯と共に工房や店舗も流されてしまい、現地に残る職人はたった一人のみと聞きます。
大徳寺に程近い古民家ギャラリー「遊狐草舎」では28日まで、若手デザイナーに依頼して製作された「現代の雄勝硯」展を開催しています。
シンプルでシャープなデザインの硯は、まるでスマートなビジネスマンの様な佇まいで、デスクに置いてあるだけでも端正な品があります。
もともと墨をする時の感触や香りが好きな事もあり、遊狐草舎という、柱や障子の直線と床板の柔らかな木目で構成された空間にも溶け込む様を見ていて、雄勝硯が欲しくなってしまいました。
スマートフォンケースにぴったり収まる程の薄さの硯は、古の日本人が携帯していた様に、”モバイル硯”として活用できそう。
中には、3Dプリンターでデザインを立体に起こし、それを職人が硯に仕上げたという作品も。
最先端技術で形状をそのまま再現する事はできても、硯の原料となる玄昌石の硬さや層状の目を見極めるのは、職人さんの手が記憶する経験があってこそ。
現代生活に活かせるデザイン力と職人技、インターネットの発信力の新しい相乗効果に期待しています。

報恩寺と妙顕寺

3月17

myoken 梅の香りがほのかに香るなか、通常非公開の報恩寺妙顕寺に行ってきました。
大河ドラマ主人公・黒田官兵衛の息子・黒田長政の宿舎であった報恩寺で有名な「鳴虎図」は、複製でありながらも1本1本書き込まれた毛並みは触感が伝わってきそうな質感。
また、ちょっと頭の大きな織田信長や無精髭を蓄えた豊臣秀吉の肖像画(作者不詳)も珍しいものでした。
京都初の日蓮宗道場で、門下唯一の勅願寺である妙顕寺では、尾形光琳ゆかりの「光琳曲水の庭」等異なる趣向の三つの庭園もありましたが、日蓮宗開祖・日蓮聖人直筆とされる十界曼荼羅と、その要素を立体的に再現した本堂須弥壇は、まるで誰かが扮しているのでは!?と思うほど迫力のあるものでした。
また、日蓮の孫弟子にあたり当寺を創建した日像上人が、通常なら7巻にもわたる法華経を、携帯用ケースに収めるべく極小文字で1巻に纏めており、鼠の髭で書かれたとも言われるその文字は1㎜四方にも満たない大きさ!それでも、添えられた虫眼鏡で見ると、ちゃんと文字の形になっているのです!!
やはり、インターネットで拾った見どころ情報だけで知ったような気分になっていても、実際に足を運んで得られる発見は、その行間にあるものなんですね。
京都市観光協会「京の冬の旅」主催の「非公開文化財特別公開」は18日で終了しますが、4月下旬からは京都古文化保存協会が主催による「京都春季非公開文化財特別拝観」が始まります。

「文化の発信装置」としての百貨店

3月3

taka 普段、色々な百貨店を利用するなかで、高島屋に対して個人的に持っている印象と言えば、“高級感”や“美術に力を入れている”、“客の年齢層が高め”でしょうか。
1831(天保2)年、烏丸通松原上ルに古着・木綿商「高島屋」を開いてから約180年。「暮らしと美術と高島屋」展が、創業地の京都で開催されています。
明治期の高島屋を再現したミニチュアから、京都と百貨店、そして日本の歴史を併記した巨大年表に始まり、レトロな広告や美術品、史料の中でも、吉野の桜やベニスの月、ロッキー山脈の雪を描いた「世界三景 雪月花」ビロード友禅の原画は圧巻でした。
竹内栖鳳や池田遥邨、富岡鉄斎など、誰もが知る作家の名が次々と登場しますが、これは意識して収集されたのではなく、創業以来の歴史の間に自然に集まったものなのだそう。
オリンピックに出場した選手が多くの人々や企業に支えられていたように、美術工芸の分野においても、日本の企業と文化が共に育ちながら、万国博覧会を通して世界に受け入れられていった経緯が読み取れます。
今でこそ百貨店にレストラン街や美術館に画廊、催事空間を設けているのは当たり前となりましたが、身の回りの人が、「特に買い物の予定は無いんだけど、ちょっと高島屋に寄って行こうかな…」と呟きながら、入口へと吸い込まれていくのを今でもよく見かけます。
客の需要に応え、またある時は時代に先駆けて新たな価値観を提案する「文化の発信装置」としての百貨店は、これからも姿を変えながら進化をし続けていくのでしょうね。

伊藤若冲と宝蔵寺

2月12

hozo 若者で賑わう“裏寺”エリアにひっそりと佇む宝蔵寺は、江戸中期の絵師・伊藤若冲を輩出した伊藤家の菩提寺です。
若冲自身の墓は伏見区の石峰寺にあるのですが、宝蔵寺には若冲の父母や弟、親族ら伊藤家先祖の墓石が4基あり、現在は無縁墓となっていて、欠損や剥落等が進み、倒壊の恐れがあるそうです。
当寺では伊藤家の墓石の保存と維持・継承のための「若冲応援団」が結成され、寄付を募る事になりました。
その宝蔵寺で、今年に入って若冲初期の作と確認された「竹に雄鶏図」が12日まで公開されています。
伊藤家から贈られた若冲筆の「髑髏(どくろ)図」のほか、版木の継ぎ目が分からない程に精緻で広大な墨摺「当麻曼荼羅」、円山応挙の孫・円山応震筆の「山水花鳥人物図巻」などの展示品の中に、「処冲」という人物の水墨画「蟹図」がありました。「若冲と関わりがあるとされる」とだけ書かれていましたが、この人は一体誰!?
今のところ若冲に妻子や弟子がいるという話は聞いた事はありませんし、若冲が描いた水墨画「蟹図」はもっと荒々しい筆致です。ですが、四代目伊藤源左衛門が「若冲居士」と号するようになったのは、彼が両親の墓を宝蔵寺に建てた翌年のこと。
2015年に伊藤若冲生誕300年を迎えるにあたって、まだまだ新たな発見があるかもしれませんね。

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