e-kyoto「一言コラム」

ガイドブックには載っていない、スキマ情報をご紹介していきます。

七夕飾りの意味

7月6

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子供が自作の七夕飾りを持って帰ってきました。
今年も、近所の花屋に笹の葉を一緒に買いに行こうと思います。

技芸上達を願い五色の短冊にしたためて、神様の依り代となる笹竹に吊るす七夕の笹飾り。
五色とは、古代中国の陰陽五行説で世の中を構成する五行を色で表したもの(木=青(緑)、火=赤、土=黄、金=白、水=黒(紫))。
これら五色は、寺社の飾りや鯉のぼりの吹き流しなどにも魔除けとして用いられていますね。

ところで七夕飾りは独特な造形ですね。各家の軒場にさらさら揺れる笹飾りを見ていると、共通しているものがあります。

一言で表すと、
吹き流し:「手芸上達」「魔除け」
三角つなぎ・菱つなぎ:「手芸上達」
輪つなぎ:「天の川。夢や人のつながり」
野菜:「お供えもの」
折り鶴:「長寿祈願」
紙衣(かみこ):「手芸上達」
巾着:「金運上昇」
綱飾り・貝飾り:「豊作、大漁」
提灯:「魔除け」

なんと、七夕飾りの紙くずを始末するための「くずかご」まで笹飾りとしてあるとは何たる配慮。
商売繁盛を願う福笹と比べても、誰でも作れてとっても庶民的です。

それぞれのお飾りの意味や作り方は、今やインターネットでも得る事ができるので、子供と一緒に作り足してみるのもいいかもしれませんし、
受験や資格試験、音楽など自分のスキルアップのために日々勉強や修練に励んでいる人も、折り紙で折って気持ちを新たにするのもいいですね。

金銀の箔を粉末にした、きらきらの砂子のようなお星さまを、幾つになっても心の中で輝かせていられますように!

今年はしめやかに。

6月8

bon 「暗闇の奇祭」と呼ばれる宇治縣祭
縣神社 のみならず、周辺の住宅地までも消灯して神様が通るのを迎えるお祭です。
クライマックスが真夜中という事もあり、神社から近くJRと京阪の「宇治」駅の間に位置する宇治第一ホテルに泊りがけでお参りさせて頂きました。

今年は3年ぶりに梵天が境内を渡御しました。
担がれた大きな球状の幣帛(へいほく)の塊の中をよく見ると、「カミサン」と呼ばれる男性が一人、埋まるように乗っていて、激しく上下左右に揺さぶられる中でも片手を真っ直ぐに伸ばして耐えています。
今年は境内の中だけでの渡御だったので、この「天振り」も従来よりは随分と大人しいものだったのかもしれません。
それでも、17時の「夕御饌の儀」や19時の「護摩焚法修」など、神事の刻となる度にどことなく人々が集まり、次第に強まる雨の中でも見守るなか、若衆たちの表情もまたどこか誇らしげだったのでした。
雨風混じる夜でしたが、やはり消灯して暗闇で神移しが行われる瞬間、一陣の風が巻き起こって木々の葉をざわざわと揺らし、そのあと静まる瞬間があるのは嬉しいものです。

例年の祭の様子は、縣神社をモデルとした小説『蒼天』に描写されています。
近畿各地から集結した数百軒余りもの露店や屋台が立ち並び、浴衣姿の子供達など老若男女で賑わっていたという地元色の風情も味わうため、また訪れてみたいものです。

梵天から外され、お下がりとして頂いた白い紙垂を手に、僅かな街灯のみに照らされた暗闇の縣通りを後にしました。 →動画はこちら

進化する鯉のぼり

5月4

koi
雨が降ったり止んだり、その度に我が家の鯉のぼりを出したり中に入れたりを繰り返しています。
家の狭さに対して少々大きめの鯉のぼりだったかな、と買った当初は思いましたが、子供達が毎年嬉しそうにはしゃぐ様子を見ていると、これで良かったのだと実感しています。

中国の「登竜門」、日本には「鯉の滝登り」の伝説があるように、滝を遡上して龍と化す生命力の強い鯉は、立身出世を表しているといいます。
将軍家に男児が生まれると旗指物や幟を立て、虫干しを兼ねて鎧や兜を飾って祝うのが武家の風習でした。
それに対して、江戸の裕福な商家でも武具の模造品等を飾るようになり、立身出世の象徴である鯉を幟に揚げられるようになり、町人へと広まっていったそうです。

鯉のぼりは和紙に描かれた黒一色の真鯉から布製へ、やがて雨や汚れに強い合成繊維製が登場し、明治時代頃から緋鯉、昭和時代以降は多彩な子鯉まで加わりファミリー化、飾る場所から形状も多彩化しています。

働き方やファッション等で男女の性差が交差し、家族の形も多様化する現代。
鯉のぼりもよりレインボー化していくのでしょうか。

2022年5月04日 | 歴史 | No Comments »

「日本のあそび」曲水宴

4月11

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上賀茂神社の渉渓園に一歩踏み入れると、濃厚なお香の香りを感じて思わず振り返ると、山田松香木店が「薫物(たきもの)」をされていました。
薫物の演出は『源氏物語』等の古典文学にも記されており、今年は染殿后藤原明子の「梅花」をもとに、昔ながらの調合方法で調整されたものだそうです。

「ならの小川」からの分水が流れ、木漏れ日の中には客席が設けられ、そよ風に汗ばむ程の陽気も忘れてしまうほどの心地よさ。
受付から開宴までの合間に、たまたま居合わせた和歌をたしなむという方とならの小川の畔に腰かけて、せせらぎの音に耳を傾けながら昼食を取りました。

「五・七・五・七・七」のリズムを持つ短歌と和歌と違いとは。
和歌には型というものがあり、いわゆる「現代短歌」は、明治以降に入ってきたもので、芸術として自我を表現するものだそうです。
令和元年に選ばれた斎王代が十二単の袖を引いて現れると、場が一層華やぎ、客席も色めき立つのが伝わってきます。

薫物は二箇所であり、遮る物の無い開けた庭園であっても、披講の抑揚ある調べに載せるようにリズミカルに濃淡を変えながら香りが漂っていました。
曲水宴は、中国の禊祓の行事が日本流にアレンジされたもので、自然の中に身を置き、香を焚いて雅楽とともに場を盛り上げ、歌を詠む順番さえも羽觴(うしょう)を運ぶ遣水(やりみず)の流れに任せるという、まるで王朝文化への憧れを投影した「日本のあそび」を象徴するような催しでした。

宴の後は、斎王代が境内の斎王桜の前で美しい立姿をみせてくれました。

京の都と鎌倉幕府

3月8

出世恵比寿神社

出世恵比寿神社

2022年の大河ドラマは鎌倉が主な舞台ですが、京都にも関連する場所はあるのでしょうか。
驚くことに、それは秋の時代祭の時代行列の中にありました。

鎌倉時代を表す「城南流鏑馬列」は、承久3(1221)年5月に、後鳥羽上皇が朝廷権力の回復を図り流鏑馬に託して城南離宮に近畿10余りの国の武士1700名余りを集め、鎌倉幕府執権の北条義時追討の挙兵準備をした一場面とされています。
この影響は宇治川や比叡山にまで飛び火することになります。
この承久の乱の後、鎌倉幕府は京都守護に代えて朝廷を監視する六波羅探題を京都に置き、以降、明治維新まで600年以上に及ぶ武家政権が続く大きな転機となりました。

都落ちの際に焼失した平氏一門の邸宅六波羅第と、その後に鎌倉幕府によって設置された六波羅探題の址を示す石標が六波羅蜜寺の境内に建てられています。
建仁寺の勅使門は六波羅探題北方の門、東福寺の六波羅門は南方の門を移築したものと言われています。
詳しくは「歴史さんぽ」をご参照ください。
(ちなみに、粟田神社境内にある出世恵比寿神は、源九郎義経が牛若丸の幼少時代に奥州下向の際、源家再興の祈願をしたとされています)

承久の乱はおそらくこのドラマのクライマックスかと思われ、ちょうど祭が斎行される10月頃になるのではないかと想像していますが、はてさて、どうでしょうか。

月を観たか?

3月2

ao 西陣の興聖寺。
堀川沿いにあるため、前を通りがかったことのある人も多いかもしれませんが、「京の冬の旅」キャンペーンとしては40年ぶりの公開だそうです。

仏殿の天井に描かれた「雲龍図」、わざわざ螺旋状の石段を降りたところにある「降り蹲踞」、目にも鮮やかな、フィジーの海中写真を襖絵に仕立てた『青波の襖』や四季折々の草花を描いた天井画、茶道織部流の祖でもある武将・古田織部の院号を冠した茶室「雲了庵」と織部の木像など。
「ここまで“映える”お寺だったとは….古田織部が現代に蘇ったら、目を丸くして喜ぶかもしれない。」
などと妄想しながら、景気よくカメラのシャッターをパシャパシャ切っていました(※仏殿や茶室は撮影不可です)。

別の日に訪れていた友人のSNSによって、仏殿に「指月標」と書かれていたことを知りました。
「月を示そうと指をさしても、肝心の月を観ないで指を見る。(目先のことに囚われず遠くを見よ)」との意味だとか。
“映え”を気にして記録に残す、見せることばかりに熱心な自分は、ここで何を受け止めただろうか…。

伽藍を出て門へと帰る途中に、立派な枝垂れ桜の木が佇んでいました。
春本番になれば、きっと見事な桜の振袖を見せてくれることでしょう。
この先、このお寺が再び一般公開されるのは何年先となるでしょうか。

メジャーどころ目白押し。大徳寺大光院

2月16

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大徳寺の塔頭の一つ、
大光院が特別公開されています(※2022年2月15日(火)~18日(金)を除く)。
普段は非公開のため、いつも前を素通りするだけの目立たない存在でしたが、豊臣秀吉の弟・秀長の菩提寺であり、客殿の襖絵の雲龍は狩野探幽筆、茶室「蒲庵」は、黒田如水(官兵衛)の好み、露地には如水の子・黒田長政と加藤清正、福島正則の三武将がそれぞれ一つずつ石を寄進したという云われがあり、こじんまりした境内ながら戦国時代のメジャーどころが目白押しで驚きました。
雲龍画の痛みが少し目立つかな、と思いましたが、奥州・伊達家伝来の屏風を襖に直したものと知り納得。
どこか愛嬌のあるお顔を見て、同行の友人が自分の父親に似ていると話していました。

大和郡山城主だった秀長の法号を冠した大光院は、藤堂高虎によって現在の紫野高校のテニスコートの辺りに移され、昭和29(1954)年に現在地に移転されたようです。
門構えは、藤堂高虎の頃の時代を留めているそうです。

大徳寺は禅や戦国時代に興味がある人にとっては聖地のようなお寺。
京都SKY観光ガイド協会のガイドによるウォーキングツアー『茶面の大徳寺を訪ねる~利休の歩いた石畳~』も同時開催されています。

鬼を退け、鬼に願う

2月8

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「疫病神を追い払いたいけど…」と各地で節分行事を行うか否かの判断が分かれるなか、蘆山寺では2年ぶりに追儺式が実施されました。

ある人は肩や腰、またある人は肺や眼など、身体の悪いところを邪気払いされた鬼に加持してもらう「鬼の御加持」では、宝剣で病を削ぎ落とすようにさすってもらいます。
列を成しているのはお年寄りが多いかと思いきや、小さな男の子や、お母さんに背負われた赤ちゃんまでいました。

特設舞台の上を進む追儺師らが手にした「鬼喰い切りの独鈷・三鈷」や「降魔面」はこの日に限り公開されるものです。
人間の三つの煩悩「貪欲」「憎悪」「愚痴」を表した赤・青・黒の鬼が一定のリズムで手足を大きく上げ下ろし、周囲ににらみを利かせる鬼踊り法楽の鬼の動きは猿楽の所作から来ているのだそうです。
松明の火の粉を振りまき大師堂へと乗り込んだ鬼は、報道カメラマンをも威嚇し、後ずさりさせます。

護摩の周りで三匹に踊られては、確かに気が散って邪魔でしょうね。法力にやられた三体の鬼は、まるで酔っ払いのごとくふらふらとお堂から外へと逃げ出しますが、その様が法螺貝の音と妙にマッチしています。
鬼が退散すると、駄目押しに追儺師が東西南北と中央へ邪気払いの法弓を引き、歓声の中で矢が弧を描きました。

最後に蓬莱師や福娘、年男、寺侍による福餅・蓬莱豆撒きが始まり、無事に受け止めて更に中に当たりが入っていた人は、破魔矢がもらえます。
餅はキャッチできませんでしたが、第一投目が頭にポコンと当たったので、それもまた当たりかもと都合良く解釈しました。
本尊の元三大師が魔滅大師(豆大師)と云われ、観世音菩薩の化身として表現されたという蓬莱豆は境内でも販売されていますが、蓬莱豆を紅白一粒ずつ食べるとその人の寿命が6年延び、また福餅を食べると開運、出世するそうですよ。

終了後は鬼との記念撮影が行われているらしく、人混みの彼方から子供達の絶叫が響き渡り、大人たちの笑いを誘っていました。
今年一年、無病息災でいられるといいね。 動画はこちら

神仏か、鬼か、亡霊か

1月18

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京都駅ビル内にある美術館「えき」KYOTOで、「能面100 The Art of the Noh Mask」が開かれています。

「能面の様な」と書くように、しばしば「無表情」の代名詞とされてしまう能面は、馴染みの無い人にとってはどれも同じに見えてしまうかもしれませんが、この様に系統立てて100面もの数を見比べると、さすがに違いを肌で感じられるのではないでしょうか。
それぞれ解説にはどんな演目で使われるのかあらすじが書いてあるので、京都が舞台となっているものなど、実際にその演目を観てみたくなる人もいるかもしれません。
能面が観る角度によって喜びや哀しみを表現できるというのはよく知られるところですが、髪の乱れや皺の深さ、目の金泥の有無など、人間の複雑な精神状態を表現するために細部の造形から演目に合わせて慎重に選び取られているのが分かります。

豊臣秀吉が作らせたという「花」「雪」「月」の小面のうち、 金剛家に伝わる「雪の小面」と久しぶりに対峙すると、やはり別格だと感じずにはいられませんでした。
その肌にうっすらと、まだ誰にも触れられていない雪を載せているような、雪が積もった日の静けさのような繊細さに顔を沈める瞬間とは、一体どんな心地なのでしょうか。

能が成立する以前から呪師が儀式の際に掛けていたという神面の「翁」など、基本的に面をかけないで演じる狂言も、神聖な存在を演じる際には面を用いるほど、面というものには神が宿る依り代のように大切にされてきました。
学業、出世の神・菅原道真を神格化した天神の面もあり、身近に受験生がいる人にとっては有難い出逢いとなるかもしれませんね。

冒頭のスティーヴェン・マーヴィン氏による寄稿が、能面の持つ特異性を分かりやすく紹介しており理解が深まるので、鑑賞前には必見です。

何度でも生まれ変わろう

12月22

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宇治市縣神社をモデルにした小説『碧天(あおきみそら)~鎮魂の巻~』を読みました。
フィクションではありますが、「深夜の奇祭」についての詳細な表現や、普段は伺い知れない神社の裏方の様子、またおみくじの読み方や神社でご奉仕する人達の袴の色や形について、神様へのお供えものについて等、読み進めながら豆知識も増えていきます。

「サーダカウマリ(性高生まれ)」「カミダーリ(神障り)」という精神障害に係わる沖縄由来の言葉も初めて知りましたが、心を患う人、規範の社会の枠組みに生きづらさを感じている人の姿は、目まぐるしい現代社会に生きる私達にとって決して遠い存在ではありません。
心が潰れてしまう前に、周りもできることは無かったのだろうか、と感じてしまう事件も後を絶ちません。
元来は無垢な人間が、世間で生きてゆくなかで、様々な気負いや気遣いを背負わされて、次第に気力が弱ってゆき、心の病気や体の苦しみとして現れる。
“穢れ”とはそういう気持ちの萎えてしまった状態なのではないか。その状態を追い出して新しい気持ちの満ちた状態に持ってゆくことができれば、苦しみも徐々に癒されていくのではないかと、宮司は作中で語ります。
神様と人との間を取り持つ職業として、また女性だからこその目線で紡がれた物語で、作中には和歌や旧約聖書からの言葉も引用されています。
『何を守るより、まず自分の“心”を守れ そこに“いのちの源”がある』。

特別な宗教観は無くても、人はなぜか祈りの場に足を運びます。
日常から少し離れ、気分だけでもリセットしたいという欲求が心のどこかにあり、そのきっかけとなるのが「祭」なのでしょう。

この作品が出版されたのは今年の夏、最初に書き上げられたのは今から遡る事18年前のことだそうですが、奇しくも、筆者の大島菊代さんは縁あって現在、縣神社の禰宜を務めています。
おうちの近くの氏神さん、もしくはどこか気になるお社を訪れてみてはいかがでしょうか。

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