e-kyoto「一言コラム」

ガイドブックには載っていない、スキマ情報をご紹介していきます。

鴨川さんぽの寄り道

3月6

kamo 先週ご紹介した「ストックルーム」に行くのに、どこかお昼を食べられるところは、と思っていたら、同じ建物の上階へ若い女性たちが続々と上がって行くのが見えました。

窓から鴨川は見れそうに無いけど、『かもがわカフェ』。
階段を登ってちらっと店内を一望させてもらうと、何だかいい感じ。
ミニシアター系の映画やら落語の会やら、壁を埋め尽くす数々のポスターやフライヤーを眺めながら待ってみる事にしました。

頂いたのは、揚げ餅と大根の優しい味のスープに、
大原産の長葱を牛肉で巻いた韓国風の照り焼き、ライチ茶などなど。

残念ながらランチは2月で終了だそうで、今後は珈琲に特化した喫茶がメインになるようです(軽食メニューは有り)。
思いのほか食事にありつけるまで時間を要したので美味しそうな珈琲を頂くいとまが無くなってしまいましたが、今月より珈琲豆の卸しもされるようなので、そちらとを次のお目当てにしようと思います。

せっかちな人には向きませんが、鴨川さんぽの後にゆっくりするひと時を求めて何度となく足を立ち寄る人もきっと多いのでしょう。なんと今年の5月で20周年、お雛様の日に新装オープン。
落語の会がある日に、珈琲片手に耳を傾けてみるのもいいかもしれません。

節分の「祇園ひょっとこ踊り」

2月7

hyottoko e京都ねっとも今年で干支2週目でありながら、節分の日に行われる「ひょっとこ踊り」については知りませんでした。

満足稲荷神社で狐のお面を被った巫女や年男が豆撒きをします。
こちらでは「鬼は外」とは言わず、「福は内」の掛け声のみ。
豆を受け止めるため人々が笑顔で両手を広げ、場が温まると、ひょっとことおかめらが舞殿に上がり、寸劇を披露し始めました。
化け狐がひょっとこの妻・おかめをそそのかして舞殿の外に連れ出すと、様々な表情のひょっとこ達が続々と後に続いて境内を踊りながら賑やかに周り始めます。
軽快な鉦や笛の音色と、おかめの愛嬌、ユーモラスなひょっとこのり付けに、いつしか観衆も手拍子。

太秦・ひょっとこ踊りの会」による奉納だそです。
2023年8月にひょっとこ踊り発祥の地とされる宮崎県で開かれた「日向ひょっとこ夏祭り」で団体・個人ともに優勝したという実力派です。

間の抜けた表情についこちらの頬も緩んでしまい、「こっち向いて~」と声を掛けると、ポーズを取ってくれることも。
その後、一行は20時に観亀稲荷神社から銘々に出発。
通りすがりの外国人に「何が始まるの?」と話しかけられ、追いかける私達の後について来ました。
祇園界隈はちょうど節分のお化けで獅子や助六などに扮した芸妓さんたちにも度々遭遇します。

祇園新橋辺りに再集結したひょっとこ達は更に数が増えたように見え、懸想文売りも加わりました。
祇園町の北側、辰巳神社周りを練り歩き、その後祇園町の南側へと移動していきました。

この「ひょっとこ踊り」は今年で10年目の節目として、一旦終了だそう。
残念ではありますが、春の訪れがいち早く訪れたような、清々しい気分にさせてもらいました。

あ!そういえば…この日は鬼に一度も会ってなかった!

瀧尾神社と大丸と祇園祭

1月24

takio 当初3日間だけの予定だった瀧尾神社の「木彫り龍」の特別拝観が、3月末まで期間延長(※木曜休み)されています。

辰年という事で夕方でも参拝客が絶えず、順番を待ちながら拝殿を見上げると、境内は広大というわけではないものの、美しい檜皮葺の屋根やその周りをぐるりと飾る彫刻が、とても立派なものであることに気付きます。

これらの彫刻が干支かと思いきや、後で調べてみると獅子や獏(ばく。象の様に長い鼻でした)、海馬(かいば。見た目は牛に似ていました)、犀(さい。亀の甲羅を背負っているように見えます)といった生き物だったのでした。
中でも、「鳥龍(ちょうりゅう)」は、天皇即位の高御座にも見られる神獣とされ、彫刻としての姿を見られるのは大変珍しいことなのだそうです。

これらは九山新太郎という江戸後期の彫り物師が手掛けたもので、大丸百貨店の創業家・下村家の子孫から寄進されたと伝わります。
大丸との縁は、創業者の下村彦右衛門正啓(「福助」人形のモデルとも)が行商へ行く道中にあった当社を常々参拝し、現在の京都大丸の屋上にも瀧尾神社から分祀した稲荷社へ毎月一日に宮司が欠かさずお参りをしているとのこと。

初公開されたのは、拝殿の天井を泳ぐ木彫りの龍。髭の先から尾までなんと全長8m。
こちらも下村家から寄進され九山新太郎とその弟子たちの手によるもので、鋭い爪の中に宝珠を携え、今にも動き出しそうなほど。
江戸時代に大丸呉服店の総本店が祇園祭の大船鉾の寄町にあった縁で、下村家が鉾の先端を飾る龍頭の制作を援助、その際に檜で作られt最終試作品が瀧尾神社に飾られ、新たに胴体も杉でもって制作されたのだそうです。

令和の時代も大丸が存続し、人々に親しまれているのは見ての通り。
ご利益とは、一方的にお願いごとをするだけでなく、日々の感謝を自身の行動で表すことでもたらされるのではないかと感じますね。
年の初めにいいものをみせて頂きました。

身体で音を聴く、没入型展覧会

12月20

am アンビエント・ミュージック(環境音楽)をテーマにした視聴覚芸術展「AMBIENT KYOTO 2023」。
好評につき、大晦日まで会期が延長されています。
音楽ジャンルとしての「アンビエント」とは、「聴くことを強制しない、環境に溶け込んだような音楽」とされ、
自分の中では「ヒーリング音楽よりもアートっぽくてかっこいい」印象でした。

初めて足を踏み入れた京都中央信用金庫旧厚生センター
アンビエントの創始者で英国出身のアーティスト、ブライアン・イーノが昨年に展覧会をした築90年のモダン建築です。
携帯カメラのシャッター音が作品の邪魔をしないよう、事前にアプリをダウンロードしてから鑑賞するのも初めて。
小劇場のようなステージに立ち、20台ものスピーカーから大音量と鮮やかなライトを浴びたり、音楽に合わせて草木が茂るさまに見入ったり、前を歩く人との距離感が分からなくなるほどの霧に包まれたり、音の動きを映像化したような作品から目が離せなくなったり。
「身体で音を聴く」感覚は久しぶりのことでした。

印刷工場跡だった京都新聞ビルの地下では、3月に亡くなった坂本龍一氏と高谷史郎氏のコラボインスタレーション作品が幅26メートルもの長細いLEDパネルに映し出され、来場者は同じ方を向いて「耳を傾ける」というより、その映像と音楽に「入り込んでいる」ようでした。

この秋には東本願寺の能舞台や国立京都国際会館メインホールでライブも行われたといい、京都の寺社だけではない環境の可能性を体感する没入型イベントと言えます。
会場入りした時から気になっていた香りがフレグランスとしてギャラリーショップに展開されていたので、お土産に購入しました。→公式動画はこちら

小学生、能舞台に立つ

11月15

noh友人の小学5年生の娘さんが初めて能舞台を踏まれました。
面を付けない素顔や、唐織の衣装を握るふっくらとした手はあどけなさが残るものの、表情は常に冷静で凛々しく、頼もしさまで感じるほど。

能楽をはじめ日本の伝統芸能好きな母親がテレビや能舞台で鑑賞していた影響で、同世代の子供達が舞台に立つ姿を観て、「自分もやってみたい」と、門戸を叩くことになったそうです。

独特の節回しを口伝えで教わるのは、誰にとっても難しいはず。
彼女の場合はすらすらと覚えてしまい、老若男女が集う稽古をとても楽しんでいるそうです。
どちらかというと、慣れない正座や、舞台上で何十分も片膝を立てた姿勢を保つ方が大変だったとか。
それまで日本史にも余り興味が無かったけれど、能を学ぶようになってから歴史や古典の授業で共通点を見つけたり、装束の模様に関心を持つようになったりといいます。

稽古をつけた金剛流宗家長男の金剛龍謹さんとは、師弟の関係。
演目『富士太鼓』の上では、主を亡くした母と娘でした。

向かい合い呼応する声。
もとよりボイストレーニングをされていたそうで、師匠にも劣らない声量が観客席にまで響き渡りました。

龍謹さん演じる母親は、夫が殺害された事を告げられ、形見の衣装に袖を通し取り憑かれたかのように太鼓を打ち鳴らします。
冒頭では落ち着いた女性の横顔だった面が、鳥兜を被った瞬間から変わり、舞台袖から見上げた兜の陰に垣間見える目は、狂気を帯びていました。
最後は恋慕と狂乱の感情を衣装ごと脱ぎ捨て、もとの笠姿に戻ると娘の背にそっと手を添えてから、親子は静かに退場します。

舞台に立つということは、自分に関わる全責任を独りで背負って立つと言うこと。
当日までは体調管理など、家族や周りの人たちがサポートしてくれますが、自分の役は他の人には替わることができません。

目の前に立つのが自分の子であったら、視界がうっすら濡れていたかもしれません。

2023年11月15日 | 芸能・アート | No Comments »

島原・夕霧太夫の扇屋はどこ?

11月8

tayu 毎年11月の第2日曜日は「夕霧供養」が行われます。
寛永の三名妓の一人、京都・島原の「夕霧太夫」は清凉寺の付近に生まれ、その跡地には石碑が建てられています。
夕霧太夫は島原の「扇屋」に所属し、扇屋が大坂新町に移る際に伴いました。

大阪の大坂新町には、往時の大門跡や扇屋の跡地に石碑があり、また浄国寺には墓碑も建てられています。
しかしながら、京都の島原に扇屋の形跡はどこにもありません。

遊里に詳しい知人たちや、そのつてを辿ってみました。
すると、「自信あまりありませんが…」と古地図の画像を見せて下さいました。
江戸前期に成立した、遊里についての百科事典とも言える書『色道大鏡(しきどうおおかがみ)』のもの。
揚屋町の古地図で、「隅屋」の2軒南隣に「扇屋」の文字が確認できました。
もしかすると島原の扇屋は、拡張した現在の角屋の一部、もしくはそのすぐ南にあったのかもしれません。

専門知識は持ち合わせていないので想像の域を出ませんが、思わず久々に「角屋もてなしの文化美術館」の2階を予約して、角屋の周りも散策してきました。
件の古地図の箇所や角屋付近は民家等なのでここに掲載するのは控えますが、周辺には島原大門輪違屋(※通常非公開)を始め、歌舞練場跡記念碑きんせ旅館(※夜間営業。要事前確認)、島原住吉大社ご神木の大銀杏などが住宅地の中に点在しています。
ほとんど石碑のみですが新選組ともゆかりのある地域です。想像を膨らませながら、歩いてみてはいかがでしょうか。
(※画像は過去の太夫道中のものです)

お干菓子体験

11月1

miyage 友人の小学生のお嬢さんが干菓子好きと聞いて、お宅訪問の手土産にしました。

最近の和菓子は多種多様なので、カワイイ系と、茶席向き系という、それぞれ趣きの異なる干菓子にすることに。
前者は、「スライスようかん」が大きな話題を呼んだ亀屋良長さんの「宝ぽち袋」
後者は、亀廣保さんの「弓張月」と「雁来紅」を自転車で買い周り。
もちろん、どちらの品もお茶席で映える京の職人技の結晶です。

さて、後日感想を聞いてみました。
先方のパパさんは、見るなり「これ箸置き?」
…確かにそう見えるかも。
「弓張月」を飴だと思って食べてみたら、ゼリーのような食感(干琥珀)だったので驚いたそうです。
薄いお砂糖のコーティングがどうやって作られてるのか知りたくなった、ほんま芸術やね、とのこと。
宝ぽち袋の方にも繰り返し手を伸ばしていたそうです。

また別の家族で、本格的な和のお菓子は初体験という子供達の方は、
綺麗でシンプルな見た目なのに、本人が思っていた以上に甘くてびっくりしていたそう。
甘い物好きなので、ちびちび食べながら喜び、小学生のお兄ちゃんは
「お茶に合う~甘いもののあとはお茶だね」と貫禄あるコメントでした。

茶道と煎茶道が出逢ったら

9月20

ku 四条富小路を下がったところに、こんな茶室があるとは思いもよりませんでした。
徳正寺というお寺の中にある空中茶室「矩庵(くあん)」です。
建築家・藤森照信氏が設計、監修し、実際に作ったのは先代のご住職というから更に驚きです。
木の上の巣箱のような草庵は、建築雑誌等で度々拝見していましたが、まさか繁華街からすぐの立地だとは。

この徳正寺の本堂で、「く」をテーマに茶道と煎茶道が出逢う企画がありました。
本来、内へ内へと沈むように静かな時間を共有するのが茶道の茶席。
サラリーマンとの2足の草鞋から晴れて茶人となった中山福太郎さんが、静かな口調でお客を笑わせながら、片口に点てた薄茶を湯呑みに分けて煎茶風に出し、みんなで共有しました。

煎茶道は、中国文化に憧れ大陸的で開放的な印象があります。
佃梓央さんが「茶器を一つ一つ丁寧に包むのは、日本人ならではですね」と、日本と中国・台湾の文化の喫茶の違い語り、お茶や食事や音楽を部屋をあまり変えずにほぼ一つの空間で完結させるのが日本の文化だと教えてもらいました。

お茶を習っていない友人もとても楽しんでくれたのは、主客のお人柄もあると感じます。
ここでは魅力を十分に書ききれていませんが、徳正寺は通常非公開の寺院ですが、時折催しもされているそうなので、
興味のある方は公式サイトをご確認くださいね。

重陽の節会

9月12

kiku 縁起の良い「9」の数字が重なる9月9日は、「重陽の節会」を観るため、嵐山の虚空蔵法輪寺へ。
うっかり電車を乗り過ごしてしまい、慌てて法輪寺への近道を駆け登りました。
(近道の入り口は渡月橋の南詰めに看板があります。表参道とは違って、狭くて急な階段が続きますので足腰の悪い方はご注意くださいね)
着いたのは奉納行事の能のクライマックス部分、まさに菊慈童が登場するところでした。
残念ながら、茱萸袋(しゅゆふくろ)の授与は終了してしまっていましたが、小さな菊花が一輪浮いたお酒を頂きました。

別名「菊の節句」とも呼ばれるこの日は、菊の花に綿をかぶせた「菊の被綿(きせわた)」が風物詩として、和菓子の意匠でもお馴染みです。
生成り色のふわふわの綿だと思い込んでいましたが、こちらの菊慈童像に供えてあったのは平たく煎餅状で、赤、青、紫などとってもカラフル!それぞれの色に魔除けの意味があるのでしょうか。

奉納された能の演目「菊慈童」は、ここでは金剛流だったので「枕慈童(まくらじどう)」とも呼ばれているそうです。
人跡未踏の山中に流され、八百余年も生き永らえたという童子は、果たして幸せだったのでしょうか。
そんな疑問とは裏腹に、少年の姿のまま不老長寿の仙人となった菊慈童の像は、涼やかなお顔立ちでした。

能楽師の美しき陰影

8月9

ryumon 今年も金剛能楽堂の「龍門之会へ。
宗家長男の金剛龍謹氏が主催する会で、最初の仕舞はまだ年少さんの金剛宣之輔くん、続く舞囃子を8歳になったばかりの金剛宣之輔くん、仕舞を26世宗家・金剛永謹氏が担うなど、3世代にわたる共演を観ることができました。

舞台を踏み始め、人前でも堂々と、一生懸命に声を上げる宣之輔くん。
背後に親が控えているとは言え、舞台に立てば一人というプレッシャーを感じながらも凛々しく舞を見せる宣之輔くん、
今日までの鍛錬で鍛えられた声が舞台に響き渡るのが心地よく、すっかり安定感のある龍謹さん。
人間国宝として認定されたばかりの金剛永謹氏の所作には年月を重ねて枯れた風情すら感じさせます。

会を通して舞台の照明が変わったわけでもないのに、少年達の顔や衣装は眩しいほどに輝かしく、年を経るごとに陰影を帯び円熟味を増していく能楽師の一生を観るような景色でした。

後半の演目「殺生石」は、通常は後シテが狐の姿で演じられるのですが、金剛流古来の小書(特殊演出)「女体」として、玉藻前という高貴な女性の姿で舞われました。
狐の冠をかぶり、最後は舞台袖へと走り去るのですが、視界の狭い面に足袋を身に着けているとは思えない程の足の速さに、暫し終演後も茫然としてしまいました。

最近では友人の小学生の娘さんが金剛流の謡を習い始めました。
もとよりダンスが好きで、能の仕舞とも平行しながら夢中になって稽古しているとのこと。
冬の発表公演が今から楽しみです。

なお、毎年8月16日の五山送り火の日には、「大文字送り火能 ~蝋燭能~」が行われます。
金剛能楽堂の目前の京都御苑内から大文字の送り火を観ることができます。

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