e-kyoto「一言コラム」

ガイドブックには載っていない、スキマ情報をご紹介していきます。

淀城ってどんな城?

8月6

siro
京都と大阪の間、淀競馬場の近くにあるお城と言えば淀城。
一般的には、豊臣秀吉が側室の淀君に子を産ませるためという名目で築城した事で知られていますが、一体どんなお城だったのでしょうか。
歴史講座「京近き名城・淀城と淀藩政」を先月受けてきました。

現在は本丸と天主台の石垣のみが残されていますが、かつての姿は、淀川の水を庭園に流す水車が回り、まるで川の中に城が浮かんでいるような美しい白亜の城だったそうです。
京都の外港であり、奈良など各地を結ぶ交通の要衝で、聚楽第と大坂城との中間地点という事で、秀吉もここに目を付けていたのは当然のことでしょう。

文禄3(1594)年に豊臣秀吉の隠居先として伏見城が建てられてから中世の旧淀城は一旦廃城となり、その天守と櫓は解体されて伏見城へと運ばれました。
後に豊臣氏が滅亡して徳川幕府による大坂城が築城されると伏見城も役目を終え、淀の中島に築かれた新しい淀城は本丸に五層の天守閣を擁していたそうです。
当初は、廃城となった伏見城の天守閣が新たな淀城に移築される予定でしたが、急遽二条城へ移される事になり、淀城には二条城にあった天守閣が運ばれました。
その天守は淀城の土台よりも小さめだったため、空いた空間に櫓が建てられて三重櫓となりました。

二条城の天守も、淀城そのものも無くなってしまい、残念ながら櫓は一つも残りませんでしたが、淀駅周辺には関連した地名「淀新町」バス停留所や石碑などが残されています。
水車のモニュメントもあるので、競馬のついでに、いや城址巡りの入門編として、「駅近」の淀城探訪はいかがでしょうか。

2019年8月06日 | 歴史, 観光スポット | 1 Comment »

平安遷都以前の京都

2月27

asuka
「平安遷都以前にも京都に寺院はあったんだろうか?」
そんな素朴な疑問で京都市考古資料館に行ってみる事にしました。
仏教は古墳時代後期に朝鮮半島から伝わったとされ、大化の改新後に国家仏教が本格的に展開され、各地に伽藍を備えた寺院が建立されます。
都から遠く、「山背」国と呼ばれていた飛鳥時代の京都においては、『日本書記』で厩戸皇子から下賜された仏像を祀るため秦河勝が蜂岡寺を建てたと603年の11月条に記されており、実際の発掘調査によって北野廃寺の存在が確かめられています。
昭和11(1936)年に市電の工事中に、北野白梅町交差点周辺で瓦が大量に発掘されたのが、発見されたきっかけだったそうです
623年には新羅の使者が献上した仏像が葛野秦寺に納められています。
北山背には飛鳥時代に建立された寺院として北野廃寺(7世紀初頭)と広隆寺旧境内(7世紀前半)がありました。
愛宕群には北白川廃寺・珍皇寺旧境内・法観寺旧境内、紀伊群に板橋廃寺・御香宮廃寺、宇治群に大宅廃寺・醍醐廃寺・法林寺跡、乙訓郡に樫原廃寺など多くの寺院が建てられたそうです。
長岡京遷都の目前には乙訓群に南春日廃寺が現れ、地方豪族によっても寺院が建てられていたのが分かります。
外来の仏を祀るため、寺院の造営には様々な技術が導入され、それによって日本で初めて作られた物の一つが「瓦」です。
寺院に供給する瓦の製造所が、京都盆地の輪郭をなぞるように続々とできていきました。
地図上の分布の多さを見ると、渡来系の人々も入り混じってさぞ賑やかだったのではないでしょうか。
各寺の発掘箇所やその現場の様子を写した画像、各地の瓦など、殆どの展示品は撮影できます。
また、期間中の日曜には「展示解説」が14時から行われます。

2019年2月27日 | お寺, 歴史 | No Comments »

京都盆地の成り立ち

2月20

tenryu
嵯峨の「さ」、嵐山の「らん」にちなみ、嵯峨嵐山から日本文化を再発見するNPO法人「さらんネット」主催の文化講演会に参加してきました。
NHK『ブラタモリ』の案内役として人気の「京都高低差崖会」崖長・梅林秀行さんが、地形を手掛かりに京都盆地の成り立ちを語ります。
およそ300万年前の海の底。南海トラフを境に、西北西に移動し始めた東のフィリピン海プレートが西のユーラシアプレートに潜り込み、まるで皺が寄るように盆地と山地が等間隔に繰り返される起伏ができました。
その傾向は特に近畿地方に顕著で、現在の八坂神社の前を走る桃山断層、天龍寺の曹源池庭園の下の樫原断層、そして2000年に発見されたという宇治川断層に囲まれた地域が京都盆地です。
やがて扇状地に人々が住み始め「野」と呼ばれるようになり、都の周りに「大原野」や「嵯峨野」といった地域ができました。
自然の現象に意味を見出そうとする人間は、自然と自分たちの住まう地との境界を認知し始め、「野」の外側には霊界があると考える文化が形成されていきます。
「蓮台野」には大徳寺が置かれ、「鳥辺野」は葬送の地となり、霊山・比叡山には延暦寺など、境界には様々な寺社や古墳が築かれ、それらはやがて観光名所となりました。
渡月橋を写した絵や写真はどれも下流側から山を臨むように切り取られているのが殆ど。「都林泉名勝図会」などに描かれた京の都の風景にいつも雲がたなびいているように、そこには断層の斜面があり、私達はこの世とあの世の境目に惹かれて名所を訪れ、そこから世界を見ているのです。
京の都の成り立ちについて、四神や風水とも異なる、地形からの切り口は新鮮で、ぼんやりとかすかに感じていた事に初めてくっきりとした輪郭が与えらえたような気分を味わいました。

天神さんのパワー

8月7

kitano京の七夕」が始まったばかりの北野紙屋川エリアは意外にも空いていて、昼間の暑さを忘れて夕暮れのお散歩を楽しめました。
北野天満宮でも「北野七夕祭」が開催中で、短パン姿という参拝に相応しいとはいえないいで立ちをしておりまでしたが、御手洗川の足つけ燈明神事で禊をすることが目的だったので便利でした(靴を着脱するための床几やビニール袋はご用意されています)。
一瞬、肩をすくめる程に冷たい水ですが、じゃぶじゃぶとふくらはぎに水流を感じながら歩くのは気持ちの良いものです。
とても短い道のりなのですが、五行色のろうそくに灯した火を、風でかき消されないように献灯台まで運ぶのには案外コツがいります。
足もすぐに乾き、温かな血流がじんわりと戻ってくるのを感じながら、御土居のライトアップをそぞろ歩き。
個人的に「パワースポット」とは、神がかりなエネルギーがもらえる場所というよりも、人を惹きつけ、人のエネルギーが集まる力を持った場所なのではないかな、と思っています。
特に全国に「天神さん」と呼ばれ親しまれている菅原道真公は、平安時代のエリート官史とはいえたった一人の人間が、千年もの時を経てもなお、大々的に崇められているなんて、極めて稀有な存在でしょう。
お隣の大阪では5千発もの奉納花火が打ち上げられる程のお祭が行われているのですから、現代におけるその影響力は計り知れません。
これは三辰信仰による太陽・月・星の天のエネルギーによるものでしょうか。
御手洗団子茶屋や刀剣展に加えて、今週末の11、12日は子供の将棋大会や本殿石の間の通り抜け、盆踊りに和太鼓などなど、元気がもらえる催しが目白押しなので、より賑やかになることでしょう。

歴史・文化・交流の家 長谷川家住宅

5月29

hase
地下鉄烏丸線「九条」駅または「十条」駅より徒歩約10分。東九条にある「長谷川家住宅」は、275年の歴史を持つ国の登録有形文化財でありながらまだ余り知られていませんが、幕末の禁門の変の際に会津軍の幹部が滞在した名残りや、珍しい古地図や古美術もあり、非常に見どころの多い観光スポットです。
少し前まで実際に生活が営まれていた農家住宅であり、11代当主だった画家・長谷川良雄氏の娘さんが、現在は水彩画のギャラリーの運営と並行して手織り教室をされています。
テレビが隠せる扉や、おくどさんの裏側にIHコンロがあったりと、これまで観光してきた京町家とは違って、経年の趣と現代生活が入り混じったリアル感が、かえって親しみやすく、個性的です。
ギャラリーや床の間のしつらいも季節によって変えられているのですが、5月という事で貴重な檜の兜や、神功皇后とその子・応神天皇の人形、神馬など、ここでも鎧兜とは違う貴重なものが飾られていました。
やはりこれだけの規模の屋敷や庭を維持改修するためには、コンサートや古文書研究会等を企画だけではまだまだ赤字なのだそうで、「いつまでできるか…」と話されていました。
クラウドファンディングも間もなく締め切りを迎えますが、存続のためにはここの知名度が上がるまで、もうしばらく延長してもらいたいところです。
京都市内でも余り馴染みの無いエリアですが、駐車場は4台分あるので、事前に問い合わせれば車での来場もできます。
なお、7月2日や9月29日にも関連講演会とまち歩きがあるそうです。

「まいまい京都」に初参加

3月28

maimai
京都の住民が、それぞれの個性や独自の知識を活かして街歩きをガイドする「まいまい京都」。
うっかりチェックを怠っていると、どのツアーもあっという間に満席になってしまうため、今回念願叶って、やっと参加してきました。
申し込んだのは、京都府立図書館の福島幸宏さんと共に、京都市明細図に描かれた占領下の京都を巡るツアーです。
戦後、GHQの関西支部だったという堅牢な商業ビルからスタートし、老若男女が「京都市明細図」のコピーを手に、現代の街並みと見比べながら四条烏丸から京都市中心部界隈を歩いていきます。
医院や和菓子の老舗、宝飾店、パン屋など今でもほぼ同じ場所で営業しているところもあり、思わず地図と実物を二度見、三度見。
特に四条烏丸から東洞院にかけては大小の証券会社がひしめき合っていたそうで、京都市民でさえ足を踏み入れる事も無さそうなビルの合間には、それらの建物や看板、稲荷が祀られていた跡も。
また、若者が行き交う繁華街の一角に建物疎開や闇市の名残りを見ると、その地に建つ店舗群に、自らの想像のスクリーンが重なります。
ツアー解散後は有志でカフェでの懇親会に参加し、ここぞとばかりにガイドさんに質問したりして、時間の許す限りマニアックな京都談議に花を咲かせました。
詳しく書くとネタバレになってしまいそうなので、興味を持った方は、リクエストすればまた企画されるのではないでしょうか。
ちなみにパソコンやスマホで閲覧できる「近代京都オーバーレイマップ」はGoogleマップと重ね合わせることもでき、また著作権フリーとのことです。

2018年3月28日 | 歴史 | No Comments »

防犯、防火から観るもてなしの建築

2月26

nijo
幕末を偲ぶスポットを巡るなら、予約してでも行きたいのが二条陣屋(小川家住宅)
米穀商や両替商、薬種商として財を成し、二条城からほど近い立地もあって上洛した大名の宿舎としても使われたことから、防犯や防火上のユニークな工夫が凝らされているところが人気です。
天井裏に隠された武者だまりや閉じると棚に見える釣階段、隠し戸など、訪れるまではからくり屋敷の様なものを多少想像していました。
しかしながら300坪に25部屋あり、銘木の特質を活かした使い方や収納の利便性を叶えながら狭く見せない空間の使い方など、細部にわたる創意工夫の徹底ぶりは、建築や空間デザインを学ぶ人や、これから家を建てる人にとっても今もなおヒントとなり得るのではないかと思いました。
また、大火に見舞われた教訓から、庭作りにおいては、12ある井戸は全て地中で繋がっているといい、万一の際には貴重品を入れた唐櫃を水中に沈められるほどの大きなものも。
防火の観点からの見どころの多さは、他に類を見ません。
民家としては、大阪・羽曳野にある吉村家に続いて国宝指定を受け、昭和25(1950)年の法改正により重要文化財に再指定されましたが、台所など一部は今も現役で、当主が暮らしながら継承保存されています。

萩の寺の別の顔

2月13

jorin
出町柳駅を出てすぐ、常林寺には、勝海舟が寝泊まりしていたという一室があります。
幕末ゆかりの人物や建築物の魅力は、肖像画ではなく写真という形でよりリアルに感じられること。
この部屋も、まるで勝海舟がつい先程まで居たかのような錯覚を覚えてしまいます。
庭を流れている枯れた川は、砂川の跡。往時の志士達は、このせせらぎを聞いたのでしょうか。
この寺は三角州にあったために水捌けが良く、萩が良く育つのだそうです。
そういえば、ここは「萩の寺」として知られているはずなのに、さっき見た門前は萩の木すら無かったのでは!?
実は、一度株を残して切ってしまった方が萩の生育には良いそうで、秋は白い萩で人の体の半分が埋もれてしまう程の境内も、真冬の今はきれいさっぱり何もありません。
門のそばに建つ、桐と菊の紋の入った灯籠の前には、「世継子育地蔵尊」が祀られています。
雛人形ほどの小さな可愛らしいお地蔵さんにも関わらず、雨風しのげる以上に立派なお堂が建てられ、これまでに若狭街道を往来する多くの人々が手を合わせてきた事が偲ばれました。
なお、常林寺はGoogleMAPのストリートビューで境内や本堂内を見る事ができ、宿坊として利用できる一軒家の「離れ」の内部も見る事ができます。

豆まきの発祥の地

1月31

midoro 「深泥池』停留所から少し歩いたところに、「深泥池貴舩神社」があります。
平安の頃より「水の神様」として洛中より多くの参詣者からの信仰を集めていた貴船神社を分社したもので、節分の豆まきの発祥の地とされているそうです。
節分当日の2月3日は、夜7時半から8時半まで豆まきが行われる予定で、一般の人も参加でき、福豆が頂けます。
また、秋葉神社という火伏せの社もあり、上賀茂という土地らしく「すぐき漬け発祥の地」でもあるそうです。
境内の石碑によると、明治の廃仏毀釈によって壊された社殿の修復を村が怠ったため一帯が大火に見舞われ、その際焼け残った漬物樽の漬物を食べた村の長が「酸い茎や」と言ったのが「すぐき」に転じ、その味を再現したものが始まりなのだとか。
更に、江戸期の文人画家・池大雅はこの辺りの出身だったとして、1月30日は記念碑の序幕式が行われたようです。ごく小規模な神社ながら寄進者も多く、エピソードが豊富なんですね。
来訪の際には、深泥池沿いの道路は歩道が狭く交通量も多いので、移動は十分にご注意ください。
なお、池の畔にはよもぎ餅が美味しいおまん屋さんの「多賀良屋(075-781-1705)」もあります(※営業日時については要問い合わせ)。

島津家と相国寺と田辺製薬

1月16

houkou
京の冬の旅」で公開されている相国寺林光院と豊光寺を初めて訪れました。
龍の気配を察して片目を開いている猫の姿がユニークな龍虎図ならぬ「猫虎図」や、襖絵としては珍しくリスが描かれている林光院
関ヶ原の戦いの際、敗れた西軍に属していた島津義弘を大阪の豪商・田辺屋今井道與が庇護し、薩摩への逃避行を海路で誘導した功により薩摩藩の秘伝調薬方の伝授を許され、これが現在の田辺製薬(現田辺三菱製薬)の始まりなのだそうです。
後に道與の嫡孫が林光院の五世住職となり、林光院は薩摩藩が京都に作られるきっかけの寺院となりました。
豊臣秀吉の追善のため創立された豊光寺では、富岡鉄斎が碑文を書いたという「退耕塔」や葉書の語源となった「多羅葉(たらよう)」の木、山岡鉄舟の書等があります。
山岡鉄舟は剣や書の達人として知られ、獨園和尚のもとで禅修行にも励み、江戸城の無血開城にも関わった人物です。
いずれも、「鶯宿梅」の咲く頃に拝観されるとより楽しみが増しそうです。
「明治維新150年記念」と「西郷隆盛」のテーマに沿って、よりマニアックに町巡りをしたい人には、「龍馬伝 京都幕末地図本」がおすすめです。

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