淀城ってどんな城?
京都と大阪の間、淀競馬場の近くにあるお城と言えば淀城。
一般的には、豊臣秀吉が側室の淀君に子を産ませるためという名目で築城した事で知られていますが、一体どんなお城だったのでしょうか。
歴史講座「京近き名城・淀城と淀藩政」を先月受けてきました。
現在は本丸と天主台の石垣のみが残されていますが、かつての姿は、淀川の水を庭園に流す水車が回り、まるで川の中に城が浮かんでいるような美しい白亜の城だったそうです。
京都の外港であり、奈良など各地を結ぶ交通の要衝で、聚楽第と大坂城との中間地点という事で、秀吉もここに目を付けていたのは当然のことでしょう。
文禄3(1594)年に豊臣秀吉の隠居先として伏見城が建てられてから中世の旧淀城は一旦廃城となり、その天守と櫓は解体されて伏見城へと運ばれました。
後に豊臣氏が滅亡して徳川幕府による大坂城が築城されると伏見城も役目を終え、淀の中島に築かれた新しい淀城は本丸に五層の天守閣を擁していたそうです。
当初は、廃城となった伏見城の天守閣が新たな淀城に移築される予定でしたが、急遽二条城へ移される事になり、淀城には二条城にあった天守閣が運ばれました。
その天守は淀城の土台よりも小さめだったため、空いた空間に櫓が建てられて三重櫓となりました。
二条城の天守も、淀城そのものも無くなってしまい、残念ながら櫓は一つも残りませんでしたが、淀駅周辺には関連した地名「淀新町」バス停留所や石碑などが残されています。
水車のモニュメントもあるので、競馬のついでに、いや城址巡りの入門編として、「駅近」の淀城探訪はいかがでしょうか。