e-kyoto「一言コラム」

ガイドブックには載っていない、スキマ情報をご紹介していきます。

今年の地蔵盆は…

8月19

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五山の送り火の翌週辺りの週末、京都市内のあちこちで地蔵盆が行われます。
お堂の中のお地蔵さんを出して祭壇に飾り、町内の子供達は円座して長~い数珠を繰り回したり、おやつをもらったりゲームをしたり。

幼い頃に住んでいたマンションの一角にお地蔵さんがあったので、広いガレージにゴザを敷いて大規模な地蔵盆が行われ、スイカを食べたり花火をしたり楽しんでいました。
現在のような猛暑も無く、夕方になればお風呂上りの子供達が浴衣に袖を通して再び集まり、大人達もビールや枝豆を片手にご近所さんと談笑。

お地蔵さんのいない町に引っ越してからは、夏の催しすら無く、同じ京都市民でありながら地蔵盆が憧れの行事となってしまいました。

京都に限らず滋賀、奈良、大阪、兵庫、福井でも行われている地蔵盆ですが、京都のはお地蔵さんの顔に白粉が塗られ、お化粧が施されているのが特徴なのだそうです。
行事は町ごとに異なりますが、子供達も参加してお地蔵さんのお顔や身体を洗い、夏日で乾かして再びお化粧を施します。
これは「荘厳」と呼ばれる仏像や仏堂を飾り立てる行為に相当するのだとか。
町内の子供達の健やかな成長を願う夏祭りだと思っていたのですが、地蔵盆(地蔵祭・地蔵会)は、町内で亡くなった人への供養や、町内に関する事への祈祷の場でもあったそうです。

道路を通行止めにして大集合する町もあれば、少子高齢化がすすみ大人だけで行うところもあり、継続が困難になって、お地蔵さんの魂を抜く「お性根抜き」を行い、その歴史に幕を下ろしたところも。、
それでも京都市歴史資料館に展示されていた「地蔵盆マップ」を観ると、大なり小なり、かなりの数の地蔵盆が今でも行われているようで、ちょっと安心しました。
今年はどうでしょうか。「遠くの親戚より近くの他人」ということわざが、ふと頭をよぎります。

9月10日にはギャラリートークも開催されます。
ちなみに、今年は「京のテレ地蔵盆」なるコンテンツが公開されており、地蔵盆とはご縁のない地域の人々も、壬生寺副住職によるお話や、数珠まわしの動画を観ることができます。

2020年8月19日 | お寺, イベント, 歴史 | No Comments »

大福を願う帳面の寺

8月13

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盛夏から晩夏へと向かう今日この頃。
曇っていて風のある日は、自転車でも意外と快適でした。
小さな街ながら、徒歩より早く車より小回りの利く自転車で巡っていると、思わぬ発見があります。

たまたま通りかかった大福寺というお寺に、若い人々が入って行くのを見て、立ち寄りました。
中にはおびただしい数のご朱印とご朱印帳。この若者たちは信者?それともご朱印マニア?
親指ほどの大きさのご朱印帳もあり、それに応じた規格の小さな小さなご朱印の札も月毎に用意されていました。
なぜこんなにたくさん扱っているのだろうと思っていたら、「大福」という縁起の良い寺号により、お正月には商売繁盛を願う商家の出納帳に寺の宝印を授与する習わしがあったそうで、それが「大福帳」の名の由来となっているそうです。

これも何かの縁と思い、ご朱印を求めることにしました。
令和二年の年号が入った五山の送り火の意匠です。
この朱の点は、おそらく今年の送り火で点火される地点かと思われます。
何十年か経ったころに、自分も子や孫に「あの年はこんなことがあって、送り火がね…」と語り継ぐ日が来るのでしょう。

表の鐘も搗かせてもらい、思わぬ迎え鐘となりました。
お参りの際には、事前に公式ツイッターのご確認を。

2020年の祇園祭は②

7月29

sinme 31日で今年の祇園祭は幕を閉じます。
2020年の祇園祭も例外なく数々の神事が縮小や中止となり、山鉾建てや宵山の賑わい、山鉾や神輿の巡行も行われませんでした。

山鉾巡行と神輿の渡御に代わる「御神霊渡御祭」では、神霊を移した榊と神宝を持った列が氏子地域を練り歩きました。
これは、応仁の乱で多くの山鉾が焼けて復興が叶わなかった頃に、室町幕府から「神輿の修復が間に合わなければ、榊をもって代用とするように」とのお達しに基づいたものだそうです。
八坂神社の祭神は神籬に移され、それを白い神馬が運び、大政所御旅所や又旅社、神泉苑にて神事が斎行されました。
四条御旅所の前では、通りがかりの人達も手を合わせていました。
おそらく、今年は殆どの人が同じ願い事をしているのではないでしょうか。

人が殺到してはいけないので、巡行ルートは伏せられていましたが、
輿丁たは神輿を担ぐときの装束を身にまとい、肩寄せあって手拍子と「ホイット!ホイット!」の掛け声を挙げていました。
形を変えてでも、リスクを負っても神を送りたい気持ちが溢れてしまう。これもまた人の性ですね。

聖俗がせめぎ合い、疫病リスクを避けながら取材する事の難しさを考えさせられる2020年の祇園祭でした。

山鉾が巡行する理由

7月14

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例年なら今頃祇園祭の山鉾が建ち始め、各鉾町の会所から二階囃子が流れて来る頃なのですが、今年はそれらがありません。
「今年は祇園祭が中止で残念ね」という言葉を耳にしますが、神事は内容を縮小・変更して斎行されるので、中止ではありません。

祭神を乗せた神輿の行事は八坂神社が、煌びやかな山鉾の行事は町衆で作る山鉾連合会という全く異なる団体が担っています。
神輿は八坂神社を支える氏子地域を巡る一方、山鉾は鉾町を巡行するため鴨川より東へは進みません。

これまで、山鉾が巡行するのは、神輿が通る道を清めるためだと思っていました。おさらいしてみましょう。
神輿の「先触れ」として山鉾が巡行する目的は、美しい鉾頭と趣向を凝らした風流(歌と踊り)に惹かれて降りて来た疫神たちを集めるため。
これらと共に神輿が御旅所へと運び、神事によって鎮めた後に鴨川に流して「浪速の海」(大阪湾)で無力化してしまうのが狙いなのだそうです。

平安京での御霊会の起源については諸説ありますが、貞観 5 年(863)の春に疫病が流行して多くの命が失われ、5 月には神泉苑にて朝廷主催の御霊会が行われ、貞観 11年(869 年)には東北を大地震と大津波が襲ったといいます。
当時の都人も家に籠る事で疫病にかからないようにしていたのだとか。
驚くほど今の私達と重なる状況。今年は本来の祭の意味を振り返る夏になりそうです。
また、今年の7月17日から24日の間、四条通寺町の御旅所には、神輿に代えて榊が設置され、神様の依り代とされるそうです。
また、毎年山鉾巡行をライブ中継していたKBS京都では、同じ時間帯に巡行解説でお馴染み、民俗学者・八木透先生が登場する特別番組を放映するそうですよ。→過去の祇園祭動画はこちら

2020年7月14日 | 歴史, 神社 | No Comments »

「動く美術館」たる所以 

7月8

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今年の祇園祭は山鉾の建つ姿が見られないので、代わりに京都文化博物館での特別展『祇園祭 -京都の夏を彩る祭礼-』展に行く事にしました。

入館してすぐ手を消毒し、モニターで自分の体温をチェックして、ビニール幕越しに入場券を購入。
会場前では名前と連絡先を記入した紙や自分の手でもぎった半券を手渡しではなく専用箱に投入。

いつもなら人混みを気にしながら落ち着かない気分で観ていた懸装品の数々や、空を仰いで遥か高いところにある鉾頭、船鉾のご神体・神功皇后の神面、各鉾町によって意匠の異なる籤の小箱など、普段は間近に観る事のできないものが目の前に。
金具の一つ一つ、屋根裏に至るまで、精巧な彫刻、名立たる絵師による下絵と本作、目の詰まった重厚な刺繍、舶来品を購入した事を記録した古文書などに、
「これは鉾町のパトロンだった糸へん業の旦那さん達が競い合うわけやわ」「そら修復にお金かかるわ…」といちいち圧倒されていました。
西脇友一氏による緻密な『祇園祭山鉾絵図』の原画の小ささには驚き。昭和60年完成という古さを感じさせないデザイン性も負けてはいません。

平日の空いた会場の中で、目の不自由な人がお連れさんと静かに語らいながら鑑賞されていました。
今年は祭の熱気や鉦の涼やかな音色を直接体感する事は叶わないけれども、何か肌で感じるものを求めていらっしゃったのでしょうか。

最初はまだ慣れない様式に戸惑いながらの会場入りでしたが、いつの間にか自分がマスクを付けていた事も忘れていました。
願わくば会場に祇園囃子を流してもらえたら…なんて思ってしまいましたが、駄目かな…!?

絆をつなぐ刀

5月11

youkan 二尊院や祇王寺にほど近いところに店舗を構える和菓子屋「京都一夢庵大ふへん堂 嵯峨嵐山店」。
全国の百貨店や博物館等で「刀剣武家ようかん」を観た事がある人も多いのではないでしょうか。

祇王寺は緊急事態宣言が解除されるまでの間は拝観を停止されているため、「模造刀お触り放題」のこの店も暫くは要予約制となっていますが、
インターネット販売は好調のようです。

今年の大河ドラマ縛りと味の種類で選びました。
これらをステンレス菓子切り「羊羹切日本刀ナイフ」で一刀両断するのがまた楽しいのです。
雛人形にも持たせられそうなこの小刀。収める袋も思案中だとか。
お茶席があれば、稽古に行けたら、何食わぬ顔をして抜刀するのに…!!

ちなみに、二尊院は5月15日(金)より一般拝観を再開されるそうです。

通販なら、遠く離れたところに住む人にもお届けできます。
日持ちもするので、6月21日の父の日のプレゼントにいかがでしょうか。

『麒麟がくる』の予習

1月15

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大河ドラマ放映前の頭の整理として、『まっぷる 明智光秀』出版記念「明智光秀講座」を受講してきました。

明智光秀という人物像の裏表、人物相関図に加えて、本能寺の変から時代を遡るという珍しい構成ながら、観光ガイドブック『まっぷる』らしい親しみやすさで、知りたい情報がうまくまとめられています。
日本史を語る上で京の地は避けて通れないと言っても過言ではありませんが、特に若い頃の資料が少ないと言われる光秀の足跡が分かるのが主に京都だと言われています。
本能寺の変が勃発した市内はもちろん、京都大河ドラマ館が開館した亀岡市、織田信長没後に羽柴秀吉と対決した長岡京・大山崎、信長の命で平定した丹波等々、京都府内や周辺にもゆかりの地がたくさんあります。
5月の連休中に開催される「亀岡光秀まつり」に、あるいはそれまでに亀岡に是非とも足を運んでみたいと思いました。

講座の最後に、明智光秀は、制圧した土地で善政を敷くという仕事を実直に行っていた万能型の武将であり、だからこそ信長に重用されたのだろう、また、比叡山の焼き討ち等、様々な戦の後処理も担っており、家臣を案じる彼の手紙には、一人一人、下々の者の名前まで書かれ、自分の守るべき人々を思うがこそ、信長を討つという手段を選んだのかもしれない、との結びでした。

早速この本を頼りに、帰りの足で光秀の首塚に立ち寄り、塚を守る「餅寅」で「光秀饅頭」を家へのお土産にしました。

ユネスコ無形文化遺産「和食;日本人の伝統的な食文化」とは

10月8

2den   
京料理「二傳」の専務取締役・山田晃弘さんのお話を聞く機会に恵まれ、「和食に込められた思いとは何か」についてレクチャーをして頂きました。
まずは2種類の水を飲み比べ、どちらが水道水か井戸水かを当てます。
正誤が目的ではなく「違いを感じ取れるかどうか」の実験だそうで、料理の目的によっては水道水の方が向いている場合もあるそうです。

和食は、日本人が稲作によって安定的に食物を得られるようになり、
病草紙」という絵巻物に一汁三菜が初見されるように、平安末期には今のようなスタイルが完成していたようです。
室町・安土桃山時代に外来の食文化が入って来たものの、1641年の鎖国によってその影響は中断し、明治以降になると日本人は初めて牛肉を食べるようになり、コロッケやシチュー等が一般家庭の食卓に現れるようになりました。

調理技術の面では、硬さの異なる鋼を合わせ、用途に応じて形状や研ぎ方まで変えていく和包丁の奥深さの一方、炊飯器の登場など新たな道具や技術も取り入れ、合理的な判断で変化してきました。
「より美味しく、より美しく、より無駄なく」と品質(小さな違い)を追求してきた日本の文化・和食。
それは食する相手への思いがあってこそだと山田さん。食材ごとに願いが込められている
お節料理はその最たるものでしょう。
食する場のしつらいまでも心を砕くところも含めて料理だと言います。

季節の食材の持ち味を生かし、無駄なく使い切る和食。個人的には、「自然の恵みに感謝して、その命を頂く」という姿勢もまた和食の姿なのではないかな、とも感じました。

2019年10月08日 | お店, グルメ, 歴史 | No Comments »

主の息遣いが残る旧宅

9月25

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9月末まで展開している「京の夏の旅 文化財特別公開」では、寺社に加えて京町家や旧宅が公開されています。
旧湯本家住宅は、これまでに無かった平安京の通史をまとめた『平安通志』の編纂事業に携わった歴史家・湯本文彦氏の教養が偲ばれる旧宅です。
湯本氏の提案による平安京の実測事業を元に建立された平安神宮は平安遷都千百年紀念祭事業の一つで、その記念品として作られた墨の余った抜き型を、自宅の襖の引き戸に再利用するなど、発想がなんとも数寄者的。
道中のほんの数分程の間に、緑豊かな京都御苑から同志社大学の煉瓦造りのアーモスト館を経て相国寺門前へと景色が目まぐるしく変わり、自宅の庭からも洋館が見えるという、ある意味「京都らしい」立地も、湯本氏が余生を楽しんだ終の住家としてふさわしいものがありました。

そこから京都御苑の中を抜けて、今度は藤野家住宅へと向かいます。
これまで私達が触れてきた「町家」は商家の造りである「表屋造」が多かったように思います。この藤野家住宅は高い塀を構え、住居として建てられた「大塀造」です。
こちらもまた当主が茶の湯を楽しんでいたそうで、茶室が玄関を兼ねているというのも新鮮。また、部屋同士が襖一枚で仕切られているのではなく、廊下が客間と移住空間を隔てているのは京町家としては近代的だとか。
畳をよく見ると、真ん中にほんのり色が異なって見える帯状の部分があります。これは二本のい草を継いで縫った「中継ぎ表」で、京都迎賓館でも見られたものですが、こちらのは機械ではなく職人さんの手による高級品なのだとか。
貴重な畳を傷ませないためか、普段はカーペットでか隠れていたようです。
京の町が時代と共に変わりゆくなか、個人の努力で維持されて来た旧宅や、その歴史的・文化的価値に気付かれないままの旧宅がまだまだあるかもしれませんね。

感性を呼び戻す

9月11

kiku
9月9日の重陽の節句に、初めて菊酒を頂きました。
現代となっては3月3日の桃の節供や、5月5日の端午の節供に比べると知名度が低く、京都に住まう人々の間でも行われているところは希かもしれません。
その理由の一つとして、もともと節供行事は旧暦で行われており、旧暦のこの日は新暦では10月頃。
残暑も厳しく、盛りの美しい菊が手に入りにくい季節になってしまったためとも言われています。

四季がはっきりしている風土に暮らす農耕民族の日本人は、一年を24等分してそれぞれに名前を付けて読んだ「二十四節気」や、二十四節気を更に約5日ずつに分けた「七十二候」を大切にし、自然に寄り添う暮らしをしてきました。
また、今年は13日が「仲秋の名月」ですが、月齢15日目の十五夜「満月」を過ぎると、月の出は毎日約50分程遅れていくので、翌16日目は、月が顔を出すのをいざよう(ためらっている)として「十六夜(いざよい)」と呼び、更に遅くなる17日目は、まだかと立って待つ「立待月(たちまちづき)」…という風に粋な呼び方をしていました。
いやはや、この細かさ。雅というかオタク気質というか…。

ところが、日本人のライフスタイルも変化し娯楽も多様化したため、わずかな季節の移ろいに鈍感になってしまい、今やスーパーやコンビニの幟、お天気ニュースを通して文字や映像から季節を感じるという状態になっている人も多いのではないでしょうか。
「まだ暑い」ばかり言っていないで、この二十四節気七十二候を、毎日選ぶ衣服のように身に着けていきたい。
片口に浮かんだ菊の上品な鮮やかさに吸い込まれるように顔を近づけると、かすかに優しい香りがしました。

2019年9月11日 | イベント, 歴史 | No Comments »
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