e-kyoto「一言コラム」

ガイドブックには載っていない、スキマ情報をご紹介していきます。

「日本のあそび」曲水宴

4月11

kyoku
上賀茂神社の渉渓園に一歩踏み入れると、濃厚なお香の香りを感じて思わず振り返ると、山田松香木店が「薫物(たきもの)」をされていました。
薫物の演出は『源氏物語』等の古典文学にも記されており、今年は染殿后藤原明子の「梅花」をもとに、昔ながらの調合方法で調整されたものだそうです。

「ならの小川」からの分水が流れ、木漏れ日の中には客席が設けられ、そよ風に汗ばむ程の陽気も忘れてしまうほどの心地よさ。
受付から開宴までの合間に、たまたま居合わせた和歌をたしなむという方とならの小川の畔に腰かけて、せせらぎの音に耳を傾けながら昼食を取りました。

「五・七・五・七・七」のリズムを持つ短歌と和歌と違いとは。
和歌には型というものがあり、いわゆる「現代短歌」は、明治以降に入ってきたもので、芸術として自我を表現するものだそうです。
令和元年に選ばれた斎王代が十二単の袖を引いて現れると、場が一層華やぎ、客席も色めき立つのが伝わってきます。

薫物は二箇所であり、遮る物の無い開けた庭園であっても、披講の抑揚ある調べに載せるようにリズミカルに濃淡を変えながら香りが漂っていました。
曲水宴は、中国の禊祓の行事が日本流にアレンジされたもので、自然の中に身を置き、香を焚いて雅楽とともに場を盛り上げ、歌を詠む順番さえも羽觴(うしょう)を運ぶ遣水(やりみず)の流れに任せるという、まるで王朝文化への憧れを投影した「日本のあそび」を象徴するような催しでした。

宴の後は、斎王代が境内の斎王桜の前で美しい立姿をみせてくれました。

京の都と鎌倉幕府

3月8

出世恵比寿神社

出世恵比寿神社

2022年の大河ドラマは鎌倉が主な舞台ですが、京都にも関連する場所はあるのでしょうか。
驚くことに、それは秋の時代祭の時代行列の中にありました。

鎌倉時代を表す「城南流鏑馬列」は、承久3(1221)年5月に、後鳥羽上皇が朝廷権力の回復を図り流鏑馬に託して城南離宮に近畿10余りの国の武士1700名余りを集め、鎌倉幕府執権の北条義時追討の挙兵準備をした一場面とされています。
この影響は宇治川や比叡山にまで飛び火することになります。
この承久の乱の後、鎌倉幕府は京都守護に代えて朝廷を監視する六波羅探題を京都に置き、以降、明治維新まで600年以上に及ぶ武家政権が続く大きな転機となりました。

都落ちの際に焼失した平氏一門の邸宅六波羅第と、その後に鎌倉幕府によって設置された六波羅探題の址を示す石標が六波羅蜜寺の境内に建てられています。
建仁寺の勅使門は六波羅探題北方の門、東福寺の六波羅門は南方の門を移築したものと言われています。
詳しくは「歴史さんぽ」をご参照ください。
(ちなみに、粟田神社境内にある出世恵比寿神は、源九郎義経が牛若丸の幼少時代に奥州下向の際、源家再興の祈願をしたとされています)

承久の乱はおそらくこのドラマのクライマックスかと思われ、ちょうど祭が斎行される10月頃になるのではないかと想像していますが、はてさて、どうでしょうか。

月を観たか?

3月2

ao 西陣の興聖寺。
堀川沿いにあるため、前を通りがかったことのある人も多いかもしれませんが、「京の冬の旅」キャンペーンとしては40年ぶりの公開だそうです。

仏殿の天井に描かれた「雲龍図」、わざわざ螺旋状の石段を降りたところにある「降り蹲踞」、目にも鮮やかな、フィジーの海中写真を襖絵に仕立てた『青波の襖』や四季折々の草花を描いた天井画、茶道織部流の祖でもある武将・古田織部の院号を冠した茶室「雲了庵」と織部の木像など。
「ここまで“映える”お寺だったとは….古田織部が現代に蘇ったら、目を丸くして喜ぶかもしれない。」
などと妄想しながら、景気よくカメラのシャッターをパシャパシャ切っていました(※仏殿や茶室は撮影不可です)。

別の日に訪れていた友人のSNSによって、仏殿に「指月標」と書かれていたことを知りました。
「月を示そうと指をさしても、肝心の月を観ないで指を見る。(目先のことに囚われず遠くを見よ)」との意味だとか。
“映え”を気にして記録に残す、見せることばかりに熱心な自分は、ここで何を受け止めただろうか…。

伽藍を出て門へと帰る途中に、立派な枝垂れ桜の木が佇んでいました。
春本番になれば、きっと見事な桜の振袖を見せてくれることでしょう。
この先、このお寺が再び一般公開されるのは何年先となるでしょうか。

メジャーどころ目白押し。大徳寺大光院

2月16

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大徳寺の塔頭の一つ、
大光院が特別公開されています(※2022年2月15日(火)~18日(金)を除く)。
普段は非公開のため、いつも前を素通りするだけの目立たない存在でしたが、豊臣秀吉の弟・秀長の菩提寺であり、客殿の襖絵の雲龍は狩野探幽筆、茶室「蒲庵」は、黒田如水(官兵衛)の好み、露地には如水の子・黒田長政と加藤清正、福島正則の三武将がそれぞれ一つずつ石を寄進したという云われがあり、こじんまりした境内ながら戦国時代のメジャーどころが目白押しで驚きました。
雲龍画の痛みが少し目立つかな、と思いましたが、奥州・伊達家伝来の屏風を襖に直したものと知り納得。
どこか愛嬌のあるお顔を見て、同行の友人が自分の父親に似ていると話していました。

大和郡山城主だった秀長の法号を冠した大光院は、藤堂高虎によって現在の紫野高校のテニスコートの辺りに移され、昭和29(1954)年に現在地に移転されたようです。
門構えは、藤堂高虎の頃の時代を留めているそうです。

大徳寺は禅や戦国時代に興味がある人にとっては聖地のようなお寺。
京都SKY観光ガイド協会のガイドによるウォーキングツアー『茶面の大徳寺を訪ねる~利休の歩いた石畳~』も同時開催されています。

鬼を退け、鬼に願う

2月8

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「疫病神を追い払いたいけど…」と各地で節分行事を行うか否かの判断が分かれるなか、蘆山寺では2年ぶりに追儺式が実施されました。

ある人は肩や腰、またある人は肺や眼など、身体の悪いところを邪気払いされた鬼に加持してもらう「鬼の御加持」では、宝剣で病を削ぎ落とすようにさすってもらいます。
列を成しているのはお年寄りが多いかと思いきや、小さな男の子や、お母さんに背負われた赤ちゃんまでいました。

特設舞台の上を進む追儺師らが手にした「鬼喰い切りの独鈷・三鈷」や「降魔面」はこの日に限り公開されるものです。
人間の三つの煩悩「貪欲」「憎悪」「愚痴」を表した赤・青・黒の鬼が一定のリズムで手足を大きく上げ下ろし、周囲ににらみを利かせる鬼踊り法楽の鬼の動きは猿楽の所作から来ているのだそうです。
松明の火の粉を振りまき大師堂へと乗り込んだ鬼は、報道カメラマンをも威嚇し、後ずさりさせます。

護摩の周りで三匹に踊られては、確かに気が散って邪魔でしょうね。法力にやられた三体の鬼は、まるで酔っ払いのごとくふらふらとお堂から外へと逃げ出しますが、その様が法螺貝の音と妙にマッチしています。
鬼が退散すると、駄目押しに追儺師が東西南北と中央へ邪気払いの法弓を引き、歓声の中で矢が弧を描きました。

最後に蓬莱師や福娘、年男、寺侍による福餅・蓬莱豆撒きが始まり、無事に受け止めて更に中に当たりが入っていた人は、破魔矢がもらえます。
餅はキャッチできませんでしたが、第一投目が頭にポコンと当たったので、それもまた当たりかもと都合良く解釈しました。
本尊の元三大師が魔滅大師(豆大師)と云われ、観世音菩薩の化身として表現されたという蓬莱豆は境内でも販売されていますが、蓬莱豆を紅白一粒ずつ食べるとその人の寿命が6年延び、また福餅を食べると開運、出世するそうですよ。

終了後は鬼との記念撮影が行われているらしく、人混みの彼方から子供達の絶叫が響き渡り、大人たちの笑いを誘っていました。
今年一年、無病息災でいられるといいね。 動画はこちら

神仏か、鬼か、亡霊か

1月18

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京都駅ビル内にある美術館「えき」KYOTOで、「能面100 The Art of the Noh Mask」が開かれています。

「能面の様な」と書くように、しばしば「無表情」の代名詞とされてしまう能面は、馴染みの無い人にとってはどれも同じに見えてしまうかもしれませんが、この様に系統立てて100面もの数を見比べると、さすがに違いを肌で感じられるのではないでしょうか。
それぞれ解説にはどんな演目で使われるのかあらすじが書いてあるので、京都が舞台となっているものなど、実際にその演目を観てみたくなる人もいるかもしれません。
能面が観る角度によって喜びや哀しみを表現できるというのはよく知られるところですが、髪の乱れや皺の深さ、目の金泥の有無など、人間の複雑な精神状態を表現するために細部の造形から演目に合わせて慎重に選び取られているのが分かります。

豊臣秀吉が作らせたという「花」「雪」「月」の小面のうち、 金剛家に伝わる「雪の小面」と久しぶりに対峙すると、やはり別格だと感じずにはいられませんでした。
その肌にうっすらと、まだ誰にも触れられていない雪を載せているような、雪が積もった日の静けさのような繊細さに顔を沈める瞬間とは、一体どんな心地なのでしょうか。

能が成立する以前から呪師が儀式の際に掛けていたという神面の「翁」など、基本的に面をかけないで演じる狂言も、神聖な存在を演じる際には面を用いるほど、面というものには神が宿る依り代のように大切にされてきました。
学業、出世の神・菅原道真を神格化した天神の面もあり、身近に受験生がいる人にとっては有難い出逢いとなるかもしれませんね。

冒頭のスティーヴェン・マーヴィン氏による寄稿が、能面の持つ特異性を分かりやすく紹介しており理解が深まるので、鑑賞前には必見です。

何度でも生まれ変わろう

12月22

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宇治市縣神社をモデルにした小説『碧天(あおきみそら)~鎮魂の巻~』を読みました。
フィクションではありますが、「深夜の奇祭」についての詳細な表現や、普段は伺い知れない神社の裏方の様子、またおみくじの読み方や神社でご奉仕する人達の袴の色や形について、神様へのお供えものについて等、読み進めながら豆知識も増えていきます。

「サーダカウマリ(性高生まれ)」「カミダーリ(神障り)」という精神障害に係わる沖縄由来の言葉も初めて知りましたが、心を患う人、規範の社会の枠組みに生きづらさを感じている人の姿は、目まぐるしい現代社会に生きる私達にとって決して遠い存在ではありません。
心が潰れてしまう前に、周りもできることは無かったのだろうか、と感じてしまう事件も後を絶ちません。
元来は無垢な人間が、世間で生きてゆくなかで、様々な気負いや気遣いを背負わされて、次第に気力が弱ってゆき、心の病気や体の苦しみとして現れる。
“穢れ”とはそういう気持ちの萎えてしまった状態なのではないか。その状態を追い出して新しい気持ちの満ちた状態に持ってゆくことができれば、苦しみも徐々に癒されていくのではないかと、宮司は作中で語ります。
神様と人との間を取り持つ職業として、また女性だからこその目線で紡がれた物語で、作中には和歌や旧約聖書からの言葉も引用されています。
『何を守るより、まず自分の“心”を守れ そこに“いのちの源”がある』。

特別な宗教観は無くても、人はなぜか祈りの場に足を運びます。
日常から少し離れ、気分だけでもリセットしたいという欲求が心のどこかにあり、そのきっかけとなるのが「祭」なのでしょう。

この作品が出版されたのは今年の夏、最初に書き上げられたのは今から遡る事18年前のことだそうですが、奇しくも、筆者の大島菊代さんは縁あって現在、縣神社の禰宜を務めています。
おうちの近くの氏神さん、もしくはどこか気になるお社を訪れてみてはいかがでしょうか。

「本物」に迫れる時代祭

10月19

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今年の時代祭(22日)も居祭となりましたが、時代行列の衣装や祭具、御鳳輦が平安神宮に特別公開されています。
本殿前には御鳳輦と、天皇が降りた際に姿を隠すために使われる錦蓋や菅蓋、その上にかざす精巧な鳳凰が公開されています。
額殿においては甲冑はもちろんのこと、巴御前や吉野太夫に和宮など様々な女性の装束の一部が美しい刺繍を輝かせていました。

従来の時代祭で京都御苑に設置される有料観覧席では、周りに近代建築が写り込むことなく時代絵巻の世界に浸れますが、衣装や籠などをこれだけ間近に観られる機会はなかなかありません。
この特別公開を逃したら、次のチャンスは、例年通りの時代祭が斎行される際の当日の朝に行列出発に先立って行われる行在所祭の前後を狙うしか無いかもしれません。

話は少し逸れますが、直後にたまたま観たテレビ番組に、きゃりーぱみゅぱみゅさんが出演されており「美輪明宏さんに出雲阿国の生まれ変わりだと思う。と言われた事がある」と話されていました。
出雲阿国は「歌舞伎の祖」とされる女性芸能者で、着物の上に十字架のネックレスをかけ派手な衣装で踊る姿が描かれていたりします。
まさに平安神宮に展示されていた衣装そのものでした。
時代祭の雅やかな時代行列は、1万2000点にも及ぶ調度、衣裳、祭具に至るまで時代考証をされているので、最も本物に近いと思ってもいいでしょう。
それぞれの時代の潮流に翻弄されながら駆け抜けていった人々の歴史を改めて振り返りながら、令和の時代祭を待ちたいですね。

特別公開は24日まで。時代祭当日の22日には、神苑が無料公開されます。

土地の記憶も継承する

9月15

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2年前、花街とそこでの景色をカメラに収める観光客とのニーズは果たして噛み合っているのだろうか、と疑問に思った事がありました。

現在、建物の老朽化や耐震性問題により宮川町歌舞練場が建て替えられるのに伴い、向かいの旧新道小学校の跡地と一体的に再整備する計画が進められています。
設計を担う隈研吾さんによると、1916(大正5)年の木造建築の大屋根のデザインを宮川町のシンボルとして踏襲し、元新道小はホテルとなりレストランを伎芸披露の場へ、また周辺には学校の歴史を伝えるスペースや児童館、多目的ホール、防災倉庫等多様な機能を備えた地域施設が新設されます。
劇場内部の唐破風は復元され、すだれ格子をデザインしたファザード、照明や幕を吊るす装置として使われていた竹すのこもホテルのホワイエに活用、小学校のファザードも再現されると共に外壁のタイルや枝垂桜も移築して活かされます。

ただ和モダンにリニューアルするのではなく、普段は花街との接点が無い観光客や地元に住まう人達と宮川町を繋ぎ、花街文化を継承していくためにICT技術を取り入れるという試み。
ICT(情報通信技術)とは、様々な形状のコンピュータを使い「IT(情報技術)」にコミュニケーションの要素を含めたもの。
川端通りと大和大路通りとの間には新たな小路「新道通」を通し、「“街の記憶の継承”と“新たな共存価値”の創造」を目指すのがこの事業のコンセプトだそうです。
これまでにも、宮川町お茶屋組合とNTT都市開発は京都から離れた場所からもインターネットを通して「京おどり」を好きな角度で観られるようにするVR配信サービスを行ってきました。

具体的には、観光客がホテルからの紹介で宮川町のお茶屋を訪れ、遠方にいる別のお客は分身ロボット「OriHime」を通して遠隔操作でお茶屋でのひと時をヴァーチャル体験。
その後実際に宮川町を訪れ本物を体験してもらうきっかけ作りに繋げるほか、この「OriHime」をによってインバウンド客への通訳も可能となるそうです。

まもなく宮川町歌舞練場は解体されますが、歌舞練場と旧新道小学校は3Dスキャンによって取り込まれた点部データを加工し作られる「デジタルアーカイブ」として閲覧できるようになる予定で、卒業生がまるで母校を訪れ内部を歩き回るかのようにいつでも観に行く事ができるそうです。

2021年の祇園祭は②

7月31

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31日に八坂神社境内の疫神社での夏越祭をもって、2021年の祇園祭は締めくくられます。

後祭の7月24日。
榊を背に氏子地域を歩んだ神馬は、祇園祭発祥の地・神泉苑又旅社を経由して八坂神社へと帰還しました。

神社の石段下では、輿丁達や祇園の花街の方など、祭神を待ち侘びた人々が「ホイット、ホイット!」の掛け声と手拍子で迎えていました。
陽が落ち、榊を神輿に返して、ここから神霊を本殿に返す儀式が行われます。

時が満ちて消灯。一斎が沈黙し満月の光だけに照らされた暗闇のなか、本殿からは手招くような琵琶の音色が聴こえてきます。
誰一人言葉を発しない境内だと、水が流れる音が聞こえる事を初めて知りました。
白布の向こうでほのかな光が動き、神霊は本殿へと還られました。

世界的な疫病の流行下で、疫病退散の祭を多人数で行う事が正しいのかどうかは分かりません。
「文化を継承する」のも、「神に祈りを捧げる」のも、あくまで人間の都合だからです。
取材に際しては様々に注意を払っておりましたが、それでも人の密集が避けられない瞬間は何度かありました。
自分もその一因である事は間違いありません。

祈りを届けるために天地を繋ぐのなら、鉾と神木を立てるだけでよいところを、集めた財によって舶来品と匠の技の結晶で飾り立てた山鉾の姿は、まさに「町衆の祭」の象徴ですね。

儀式の間に感じた、暑さを感じないほど穏やかな夜風。
にわかに本殿側だけ踊っていた提灯。
藍色の空に顔を出した神々しい満月。

複雑な心境とこの清々しさを、どう捉えたらいいのだろうと、ぼんやりしながら社を後にしました。

動画はこちら(順次アップしていきます)

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