e-kyoto「一言コラム」

ガイドブックには載っていない、スキマ情報をご紹介していきます。

京都市学校歴史博物館

5月26

gakkou 明治2(1869)年に、江戸時代の自治組織である町組を基礎として、京都に日本で最初の小学校(番組小学校)が64校創られました。その京都市の学校の歩みを紹介するのが「京都市学校歴史博物館」。
校舎に足を踏み入れると、図工の時間に触っていた粘土の様な、懐かしい「学校の匂い」がしました。
きしむ廊下や日差しが落ちる階段のタイルの感触を味わいながら、現在開催中の企画「小学校の戦前・戦中・戦後展」を観て回ります。
子供の素朴な目線で綴られた日々の作文、玉音放送があった昭和20(1945)年8月15日付けの寮母日誌、入学式から先生も生徒も半分以下に減ってしまった卒業式の集合写真。
戦地へ赴く「塩見先生 応召送別記念写真」の、子供達の無邪気な笑顔には、思わず足が止まりました。隣には、戦勝を昂った調子でしたためた「塩見先生」の手紙も展示してあります。
こんなに眩しい笑顔に溢れているのに、見ている私達は必ずしも晴れ晴れした気持ちにはなれません。
この企画展のチラシを見返すと、まさにこの集合写真でした。この展示を企画した人々も、きっと同じ様に、時代を映す教育の影響力を思い知らされたのでしょう。
「塩見先生」のその後を案じていたら、他の展示室での卒業文集に、この先生への好意やお礼を書いた作文が掲載されていました。ご無事に帰還されたのでしょうか。
もちろん、戦争の展示ばかりではありません。オルガンが童謡を奏でる常設コーナーでは、歴代給食のサンプルも並んでいます。
ノート代わりに白墨(チョーク)と共に使用されていた石板は、現在の教育の場に導入されつつあるタブレット端末にも似ているような。
当館では、6月1日(日)には関連講演会、17日(火)にはここの館長であり日本画家である上村淳之さんの館長談話室のほか、唱歌・童謡教室も予定されています。

2014年5月26日 | イベント, 歴史 | No Comments »

深草の桜

4月9

sidan 先週土曜は、「墨染桜」の咲く墨染寺を目指して、伏見稲荷大社近くから琵琶湖疏水沿いを歩きました。

 深草、藤森…と続く徒歩30分の道のりは、ところどころに頭上を覆うほどの満開の桜の木が植わっていて、地元の人が犬の散歩を楽しむような静かな遊歩道になっており、観光客の姿は殆ど見当たりません。
 特に師団橋の手前辺りの桜の木々は、疎水の水面すれすれにまで枝が伸び、優雅なカーブを描いていました。

 因みに、この「師団橋」という名前は、かつてこの深草近辺に大日本帝国陸軍の第16師団が置かれていた名残で、周辺の幾つかの橋桁には、五芒星のマークが今でも見られます。

 地元の人々によって行なわれているライトアップも美しいそうで、これからも開催されるといいですね。

式年遷宮

10月3

jingu 20年に1度、新しい本殿に神様が遷られる「式年遷宮」が、伊勢神宮で行われました。
式年遷宮まめ知識
第六十二回神宮式典遷宮記念切手
多くの人々の信仰を集めている神宮。京都にも伊勢神宮にゆかりの場所があるのでは?と思って調べてみたら、やはりありました。

まずは京都府内で「元伊勢」と呼ばれる元伊勢内宮皇大神社、天岩戸神社と元伊勢外宮豊受大神社(いずれも福知山市)や、 籠(この)神社(宮津市)。
伊勢神宮の御祭神が、現在の三重県伊勢市に鎮座するまでに一時的に滞在し、祀られたと言われる場所です。
京都市内で伊勢神宮に関連があるのは、日向大神宮野宮神社斎明神社天道神社。掘り下げれば、まだまだ発見があるかもしれません。

同じく平成25年に式年遷宮を迎えた出雲大社は60年に1度というように、期間は異なるものの、かつては殆どの神社で遷宮が定期的に行われていたそうですが、経済的事情、用材や職人確保の問題で、継続はなかなか難しいようです。
そんな中、上賀茂神社下鴨神社も平成27年の式年遷宮に向かって動き始めています。

「式年遷宮」には社殿を新調し神域を清浄にする、宮大工の技術を継承する等の意味を持つとされていますが、日本人の信仰心や国民性を改めて意識する機会の様な気もします。
古いのに、新しい。変わらないようでいて、まっさらになっていく。なんだか不思議な儀式です。

京都文化博物館「八重の桜」展

8月5

yae いよいよ、NHK大河ドラマ「八重の桜」の京都編が始まりました。
京都文化博物館で開催中の「八重の桜」展のギャラリートークでは、学芸員と共に展示室内を巡りながら、見どころやエピソード、そして展示構成に込められた思いを感じ取る事ができます。
今回の展示のテーマは「故郷の喪失」。新政府軍の凄まじい砲撃を受け続け、ぼろぼろになった鶴ヶ城の写真から始まり、美しい錦の御旗と対照的に置かれた焼瓦、孝明天皇から松平容保へ授けられた宸翰(しんかん)、そして最後を飾るのは昭和3年に京都の金戒光明寺で撮影された会津会の記念写真。
この年は、昭和天皇の弟・秩父宮雍仁親王と旧会津藩主・松平容保の六男・松平恒雄の長女・勢津子の婚儀が行われ、それまで「逆賊」「朝敵」とされてしまった旧会津藩の人々の心に重くのしかかっていた暗雲が晴れ、ようやく復興の光が差し込んで来た事を意味するのです。
苦難を幾度も乗り越え、郷土愛によって結集した会津の人々が確かにそこにいた。
それもまだほんの80年程前のこと。胸がじーんとしてしまいました。
戦国幕末時代が多い大河ドラマで、明治維新以降が描かれていくのは珍しい事ではないでしょうか。
原発事故によって被害に遭われている人々、故郷に帰れなくなってしまった人々にとっては自身の境遇と重ね合わせて辛い思いもあるかもしれませんが、これから立ち上がっていく八重たちの姿を、見届けて頂きたいと願います。

2013年8月05日 | 歴史 | No Comments »
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