e-kyoto「一言コラム」

ガイドブックには載っていない、スキマ情報をご紹介していきます。

下御霊さんのお祭

5月26

simo 週末に、春の夜風を受けながら御所に沿って歩いていると、歩行者天国になっている一角がありました。
人の賑わいの中では、赤い鳥居が灯りに照らされています。
「そや、今日は下御霊さんのお祭や。」
一年365日じゅう、どこかしらで神事や催しが行われている京都では、この様に祭に遭遇する事もしばしば。
吸い込まれるように鳥居の奥へと入っていきます。
境内は地元の夏祭りの風情で、子供達もTシャツや浴衣姿ですっかり夏の装いでした。
縁日は、沢ガニ釣りや輪投げ、木製のピンボールなど、今では余り見かけなくなった「ベタに懐かしい」ものばかり。
しかしながらテレビゲームやタブレット端末に親しんでいる現代っ子には、むしろ新鮮に映ったかもしれません。
射撃にチャレンジしてみましたが、命中はするものの、軽いコルクの玉は景品を打ち落とさずに跳ね返ってしまいました。
広さはそう大きくない神社ですが、提灯に囲まれて真ん中に鎮座している神輿は荘厳で風格を感じさせるものばかり。
政治抗争の中で無念の死を遂げた貴人達の怨霊を鎮めるための神社である事が、菊や桐を象った装飾品からも頷けます。
ここを通りがかったのも何かの縁と思い、本殿でお祈りとお賽銭をして神社を後にしました。

葵祭最後の神事

5月18

aoi 今年の葵祭行列は、雨天の心配もどこへやら、無事に終了しました。動画はこちら
平安時代から続くその華やかな一行は、次なる京都三大祭・祇園祭の橋弁慶山の胴掛にも、円山応挙下絵の綴錦「加茂祭礼行列図」として登場します。
葵祭当日、行列(路頭の儀)が終着点の上賀茂神社に到着すると、社頭の儀と走馬の儀が行なわれました。
それが終わると多くの見物人は散り散りに帰ってしまうのですが、ここからは最後の神事「山駈けの神事」が斎行されるそうです。
これは、上賀茂神社のご神体である神山に向かい、御阿礼所で祝詞を上げ、乗尻が馬に乗り一頭ずつ駆け抜けて神を慰め鎮めるというものらしいのです。
もともと葵祭は、凶作が続いた6世紀の中頃、賀茂神の祟りを鎮めるために、鈴を付けた馬を走らせて、五穀豊穣を祈ったのが始まりと伝えられているので、この神事はまさしく原型に近い姿と言えます。
来年の葵祭は日曜日なので、より多くの人が楽しめそうですね。

祇園祭発祥の地と神泉苑祭

5月7

sinsen 川床が始まり、大型連休中の京都はあちこちでイベントが目白押しでした。どこに出かけようか迷われた方も多かったのではないでしょうか。
神泉苑祭」もその一つで、最終日には平成女鉾清音会による祇園囃子の奉納がありました。
貞観年間(859~877)に都を中心に全国で疫病が流行り、その霊を鎮めるため当時の国の数に相当する66本の鉾を立て、神輿を神泉苑に送る御霊会が行われました。
後にこれが町衆の祭として、鉾には車輪や装飾が施されるようになります。
神泉苑が祇園祭発祥の地と呼ばれる所以です。
瑞々しい新緑と満開の躑躅に縁取られた法成就池の畔、本堂にて最後の演奏が始まると、天まで突き抜けるような能管や鉦の音色に雨雲が刺激されたのか、次第に雨粒が落ちて来て、やがて本降りとなりました。
ちなみに、神泉苑の池に住むという善女龍王はもともと、弘法大師空海がここで祈祷によって北インドから呼び寄せ、雨乞いを成功させたという言い伝えがあります。
今月になって降雨の少なかった京都にとっては、正に恵みの雨!
観客は仮設テントや傘の下で身をすくめて奉納演奏を見守りました。
その帰りの道中も、嵐の様な横殴りの通り雨にすっかりずぶ濡れになってしまい…神泉苑のパワーを痛いほど実感させて頂きました。

鼻も鎮める!?やすらい祭

4月22

yasuirai 先日訪れた常照寺の帰り道に今宮神社に寄り、「やすらい祭」を見物してきました。
子鬼や赤と黒の大鬼、囃子方等に扮した氏子たちがそれぞれ「上野やすらい」と「川上やすらい」となって、鉦や太鼓を打ち鳴らしながら花傘と共に時間差で境内数か所と氏子地域で「はなしづめ」の踊りを奉納します。今宮さんの踊りは今宮神社の東門を出たあぶり餅屋さんの前でも舞われ(16時頃でした)、床几に腰掛けて美味しいあぶり餅を食べながら観られたお客さんは幸運ですね。 →動画はこちら
平安の昔、桜が散る頃に疫病が流行したため、花と共に飛び散る疫神を鎮める「鎮花祭」としての意味合いを持つお祭りです。
確かに、三寒四温に花冷えの折は寒暖差が激しく、体調を崩しやすいもの。現在で言うならば、鎮めたい病とは花粉症でしょうか。
上賀茂のやすらい祭は、来月の葵祭の日(5月15日)も行なわれます。

常照寺・吉野太夫花供養

4月13

tayu 昨年の葵太夫さんに引き続き、嶋原に10代の若い「桜木太夫」さんが誕生しました。
伊藤博文の寵愛を受けていたという名花の源氏名を引き継いだ桜木太夫さんは若雲太夫さんの姪で、幼い頃から禿(かむろ)として島原に関わり、小学校から習い事を始めて、日本舞踊や茶道、琴をたしなんできたそうです。
その襲名報告も兼ねた12日。鷹峯の常照寺門前に春風が通り抜けると、太夫道中を待ちわびる人々の歓声も、桜の花びらと共に舞い上がります。
桜木、薄雲、如月の三太夫が連なって、胸を張り内八文字をゆっくりと踏み進める姿は壮観でした。
立礼席でお茶を点てる薄雲太夫さんの笄の上にも、薄紅色の枝垂れ桜が降り注ぎます。
境内にある様々な品種の桜は、例年ならば順番に咲いていくそうですが、今年は一度に花開いたのだとか。
煎茶席や遺芳庵席も巡っていたため、若雲太夫さんのお点前や墓参を観るのが叶わず残念でしたが、一度に5人もの太夫さんに会える催しは貴重だと言えます。
また、吉野太夫墓所近くの開山廟では古参の花扇太夫さんが撮影に応じていました。華やかな席は若い太夫に譲るものの、年齢を重ねても今なお人々の憧れの花であり続けている事を物語っていました。

八幡・背割堤の桜と「石清水灯燎華」

4月6

iwa  今年の桜見物第二弾は、八幡市へ出かけました。
人もまばらになった夕方の背割堤で、鶯のさえずりが聞こえる桜のトンネルをのんびり歩いた後は、石清水八幡宮の夜間特別参拝「石清水灯燎華」(5日で終了)へ。
昼間に雨が降った日曜日の夜だったので、こちらも人影が少なく、暗闇に白く浮かぶ上がる桜と燈篭が本殿へと導きます。
お祓いと巫女さんによるお神楽を受け、神職さんと共に周囲も巡りながら二棟の建物を前後に連結させた「八幡造」の社殿についての説明に耳を傾けます。
社殿を囲む瑞籬(みずがき)の欄間彫刻は、日光東照宮でもその腕を発揮した左甚五郎一派の作と伝えられており、その中のカマキリは、祇園祭の「蟷螂山」のカマキリのモデルになったのだとか。
また当宮は「八幡山」など祇園祭との縁も多く、町衆と神職が相互に参詣するなどの交流があるそうです。
社殿内部は他にも、雨漏り対策として織田信長公が寄進したという「黄金の雨樋」(現実的な寄附ですね!)や、現在の八幡市駅前にあったという神宮寺・大乗院(元寇に際して祈祷が行なわれ、神風を吹かせたとも)から戊辰戦争の兵火を逃れて石清水八幡宮に運び込まれたという寺宝の一つ「篝火御影」の掛け軸(8年前に発見されたばかり。臨戦態勢ばっちり僧姿の八幡神!)など、武運の神として日本を代表する為政者達からの信仰が形となって現れていました。
石清水八幡宮の「男山桜まつり」は今月末まで開催されており、昇殿参拝は大晦日まで可能ですが、12日までは一日に5回行なわれています。

洛中洛外図

3月24

raku 先月末に立命館大学で開催された土曜講座「洛中洛外図を読む」を聴講してから京都文化博物館の「京(みやこ)を描く-洛中洛外図の時代-」展を観に行ってみました。
「京中図/画京中」や「みやこ尽くし」とも呼ばれたこれらの作品は、都を東西に分ける様に右隻と左隻に別れて更に四方に四季を持たせ、その季節に沿った祭礼行事を展開させています。
まるで観光パンフレットの様に、京都という町を憧れの理想郷として紹介するほか、当時の政治情勢や風俗、町中や田舎の建築様式等を知る上でも重要な資料にもなっています。
一方、「京の真景」の章で紹介されている江戸後期の屏風や図巻になると、金雲が取り払われて広大な田園風景が広がり、よりリアルな京の町の上空を、まるでヘリコプターから眺めているような気分になります。
なんといっても洛中洛外図を観賞する際の最大のお楽しみは、描かれた人物の生き生きとした姿でしょう。
「洛中洛外図」が描かれるようになったのは、応仁・文明の乱の後の時代のこと。町が荒廃し「リセット」され、そして復興を遂げた京都の姿でもあるのです。
国立歴史民族博物館のホームページには、後期展示の『洛中洛外図屏風「歴博甲本」』に登場する1426人の人物について検索する事ができるそうです。
さて、ここで細部を覗いてから実物を観るか、実物を観てから検索するか!?
いずれにしても、この展覧会に双眼鏡は必須です!

茶道資料館「茶箱を楽しむ」

2月24

sado 茶道資料館の新春展「茶箱を楽しむ」。平日の静かな館内ながら、人の足が絶える事はありませんでした。
茶箱とは、お茶を点てるのに必要な道具を携帯できるようコンパクトに収納し、野点(いわゆる「アウトドア茶の湯」)の風情を楽しむもので、戦乱の世には武将達が陣中で、あるいは花見や紅葉狩りの席で用いられて来ました。
紐を掛けたり瓢箪型にしたりと、持ち運びに耐えうるように工夫されたデザインや、その茶箱が使われるシチュエーションを連想させる装飾、中の茶碗や道具は従来よりも小さく軽い事が求められるため、「見立て」(代用)で遊べる自由さなど、持ち主が楽しんで趣向を凝らしているのが伝わってきます。
長時間フライト中の飛行機内で茶箱を広げ、周囲の外国人乗客や客室乗務員らにお茶と菓子を振る舞い、拍手で喜ばれたという面白いエピソードもありました。
自分自身は茶箱はまだ持っていないけれど、手持ちのバスケットに茶碗や茶筅、ケーキ等を仕込み、夜桜の宴席や植物園の東屋で友人達と一服を楽しんだ事もあれば、スキー場のゲレンデで、スノーウェア姿でスキー板の上でお薄を点て、家族で冬山の絶景を楽しんだ事もあります。
またある知人のタクシー運転手さんは、車内に茶箱を供えていて、案内したお客様にお茶を点てる事もあったと聞きました。嬉しいサプライズですね。
その際にもてなした相手は、お茶の心得がある人だけでなく、お抹茶を飲んだ事も無いという人も。
日常と非日常、茶道という敷居もふっと跨いでしまえそうな装置です。
この時期に茶箱展が開かれたのも、間もなく訪れる花と新緑の季節に向けた、野点への誘いなのでしょう。
なお、茶道資料館のすぐ隣にある本法寺は琳派の祖・本阿弥光悦の菩提寺とされ、特別公開中です。併せてお楽しみ下さい。

千總のデザイン力

2月9
「牡丹藤花束青海波文様小袖」 江戸中期(千總蔵)
「牡丹藤花束青海波文様小袖」 江戸中期(千總蔵)

 「千總460年の歴史-京都老舗の文化史-」展(11日まで)を観て来ました。
千總の創業から更に遡ること平城京の時代に、奈良・春日大社の宮大工を務めていた西村總左衛門家の先祖は、春日大社の「若宮神社」の「若宮おん祭」に千切花の台「千切台」を毎年奉納していたそうです。
あのユニークな紋は、橘や菊、藤の供花を載せた「千切台」に由来していたのですね。これがポスター画像に採用されているのも納得です。
法衣業としての出発から460年という長い歴史を重ねて来ても、「千總さんのきもの」は、古典柄なのに古臭さを感じさせないのが、いつも不思議でした。
しかし、会場に展示されていた円山応挙や神坂雪佳など千總が所蔵する屏風や下絵を観ていて、その理由の一つが「磨かれたデザイン力」にある様に思います。
京都画壇に下絵を依頼したり支援したりする中で構図や配色が洗練され、また新しい技術や職人の技(特に十二代西村總左衛門氏の下絵や緻密な刺繍作品は見ものです!)が相乗効果を生み、展示された小袖や花嫁衣装に現れています。
ほの暗い照明の中でも発色の良さが伝わってくる刺繍糸の立体感、大胆さと繊細さが織りなす描線にもかすかな黄金の輝きが見え、飽きることがありません。
創り手の息が吹き込まれたきものは、神前に供えられた瑞々しい花のように、周りの空気を変える力があります。
その歴史の重みと美しさを、ガラスケース越しではなく実際に手に取って、袖を通してみたい、そう思いました。

須賀神社の懸想文売り

2月3

kesou 節分ムードで賑わう新熊野神社聖護院にほど近い須賀神社で、「縁結びの文」を求めました。
この神社では鬼では無く、文を結んだ梅の枝を持った「懸想文売り」が現れます。
懸想文売りさんのお話によると、江戸時代に貴族が恋文を代筆して売り歩き、収入としていたとのこと。
いわゆるラブレター代筆のアルバイトなのだそうです。
なるほど、烏帽子に水干姿で、顔がささない様に覆面をするという奇妙な出で立ちにも納得。
今ほど識字率の高くない時代では、文字が描けない人が想いを伝えるために、あるいは教養のある気の利いた表現でアピールする為に、この様なサービスに需要があった事でしょう。
授与された懸想文についていた解説によると、恋文とは限らず、縁談や商売繁盛等の人々の欲望を叶える符札なのだとか。
この文を、人に知られないように鏡台や箪笥、クローゼットの引き出しに入れておくと、顔かたちが良くなり、着物が増え、良縁に恵まれるのだそうです。
綺麗でおしゃれ、その上モテるとは、女子たちの欲望を心得た嬉しい御利益ですね。
以前、ある人の講演会が終わった後で、聴講していた参加者が想いを届ける為に講演者に手渡していた手紙が、この懸想文に似た結び方だった事を思い出しました。
受け取った人は、その結ばれた文に感心されていました。もしかしたら、色紙とペンを渡されるよりも深く心に残ったかも…?
この京の風俗行事は、明治維新以降には見られなくなったそうですが、きゅっと結んだ文をバレンタインチョコに添えてみるのも風流かもしれません。

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