e-kyoto「一言コラム」

ガイドブックには載っていない、スキマ情報をご紹介していきます。

「法」の送り火

8月17

hou 今年は「法」の送り火を観る事にしました。
北山通りの混雑を避けて一筋北の小道をひたすら東へ自転車を走らせます。それでも多くのご近所さんがたくさんの家族親族を伴って歩いていました。
「法」の字のふもとに「松ヶ崎大黒天」と呼ばれる妙円寺があるので、その付近から眺めようかと出発したのですが、住宅で火床が見えなくなるぎりぎりの所でたまたま目に入った脇道に入り、アパートや家々に挟まれた駐車場に停める事にしました。
ちなみに、妙円寺では送り火前日に甲子前夜祭が、当日には甲子祭が行なわれていたようです。そして送り火翌日には、焚き上げられた護摩木の消し炭を厄除けのお守りとして拾いに来る人々のために、普段は入山できない松ヶ崎山を開放しています。
また隣の涌泉寺では、日本最古の盆踊りと言われる「松ヶ崎の題目踊り」が行なわれる事でも知られています。
既に来ていた何人かおじさんや学生さん達が世間話をしながら点火の瞬間を待つ中、周囲の関係者や他の送り火保存会との交信でしょうか、時折ちかちかと灯りが放たれています。
そのうちに山の方から太鼓を打ちならす音や、「5分前です」と保存会員へのアナウンスが聞こえてきました。
点火時刻の1分前になっても一向に真っ暗なままの山肌を見ながら周囲の人々が「雨降ったさかい、親火湿ってちゃんと火いつくんかいな」と心配するのも束の間。
いきなり一斉に火が灯り、あっというまに「法」の字が浮かび上がりました。
辺りの空気をも赤く染める一つ一つの大きな火柱の横に白い人影が毅然と立ち、京の街並みを見据えています。
昨年の送り火当日もひどい集中豪雨でしたが、どんな天候であっても、還っていくお精霊の為に、燃え盛る炎であの世への道筋をつける誇り。
この「いつも通りに」が何百年も前から積み重ねられてきました。
京都では、五山の送り火を境に、「暑中見舞い」が「残暑見舞い」に切り替わります。

宵山能

7月29

benkei 能楽堂嘉祥閣で初めて「宵山能」が開かれ、開場前から長蛇の列を成していました。
祇園祭の山鉾には能を題材としたものが多く、その一つとして記念すべき初回に選ばれたのは、後祭の山鉾巡行で先頭を歩く橋弁慶山の「橋弁慶」です。
「半能」と言う事で、話のクライマックスの部分のみを能で演じ、それまでのあらすじは能楽師・井上裕久さんが鍛え抜かれた声で面白おかしく軽快に解説をして下さいました。
独特の声調記号の付いた謡本を見ながら、子供からお年寄りまで、観客が一緒になって謡ってみるのも初めての体験でした。
「橋弁慶」では、大人が弁慶を、子供が牛若丸の役を演じます。橋掛かリを五条大橋に見立てて対峙する双方それぞれが凛々しく、優雅で美しい立ち回りでした。
大筋は同じですが、文部省唱歌として唄われる「牛若丸」では、悪さをするのが弁慶で、謡曲では牛若丸と逆になっているのが不思議です。
今では小学校でも「牛若丸」を歌わなくなってきているそうですが、「桃太郎」と聞けば鬼退治を、「ロミオとジュリエット」と聞けばバルコニーの場面を思い出す様に、一昔前の人々にとって祇園祭の山鉾は、誰もが知っているお決まりの場面を表現したものであり、能もまた、もっと人々の生活に溶け込んだ身近な存在であったのでしょう。
終演後は、その足で後祭宵山の橋弁慶山を観に行きました。
来年度の「宵山能」のテーマは、能でよく謡われる石清水八幡宮に関連した「八幡山」だそうです。

「新○○通」

6月16

「新烏丸通」を知っていますか?京都御苑の東南角辺りを見れば分かりやすいでしょうか、河原町通と寺町通の間を走る南北の通りです。
比較的新しい通りかと思いきや、実は江戸期から見られる通りらしいのです。
地図に落とした視線を、そこから少し東南に移動させ、二条通を南下すると、「新丸太町通」があり、その東には「新麩屋町通」「新富小路通」…。と続きます。
丸太町通りって確か東西に延びる道のはず…「新」って何!?
時代を遡ること1708年、油小路通姉小路下がる西側、宗林町の銭屋市兵衛の家から出火した「宝永の大火」。
風に煽られ、翌日の夕方まで燃え続いた炎は京都中心部を焼き尽くし、禁裏御所は全焼、下加茂の河合社をも炎上させてしまいました。
徳川幕府は皇宮地の復興や拡張のため、御所近辺の寺院や町家を、強制的に立ち退かせます。
丸太町以北、寺町通りから烏丸通りまでの多くの町々が、河東二条川の頂妙門前一帯に移住を命じられ、旧地の通り名や、町名に「新」を冠して開町していったのが、これらの通り名の由来のようです。
丸竹夷に留まらない、奥深い京都の町。
知れば知るほど、知らない事が出てきますね。

2015年6月16日 | 未分類, 歴史 | No Comments »

下御霊さんのお祭

5月26

simo 週末に、春の夜風を受けながら御所に沿って歩いていると、歩行者天国になっている一角がありました。
人の賑わいの中では、赤い鳥居が灯りに照らされています。
「そや、今日は下御霊さんのお祭や。」
一年365日じゅう、どこかしらで神事や催しが行われている京都では、この様に祭に遭遇する事もしばしば。
吸い込まれるように鳥居の奥へと入っていきます。
境内は地元の夏祭りの風情で、子供達もTシャツや浴衣姿ですっかり夏の装いでした。
縁日は、沢ガニ釣りや輪投げ、木製のピンボールなど、今では余り見かけなくなった「ベタに懐かしい」ものばかり。
しかしながらテレビゲームやタブレット端末に親しんでいる現代っ子には、むしろ新鮮に映ったかもしれません。
射撃にチャレンジしてみましたが、命中はするものの、軽いコルクの玉は景品を打ち落とさずに跳ね返ってしまいました。
広さはそう大きくない神社ですが、提灯に囲まれて真ん中に鎮座している神輿は荘厳で風格を感じさせるものばかり。
政治抗争の中で無念の死を遂げた貴人達の怨霊を鎮めるための神社である事が、菊や桐を象った装飾品からも頷けます。
ここを通りがかったのも何かの縁と思い、本殿でお祈りとお賽銭をして神社を後にしました。

葵祭最後の神事

5月18

aoi 今年の葵祭行列は、雨天の心配もどこへやら、無事に終了しました。動画はこちら
平安時代から続くその華やかな一行は、次なる京都三大祭・祇園祭の橋弁慶山の胴掛にも、円山応挙下絵の綴錦「加茂祭礼行列図」として登場します。
葵祭当日、行列(路頭の儀)が終着点の上賀茂神社に到着すると、社頭の儀と走馬の儀が行なわれました。
それが終わると多くの見物人は散り散りに帰ってしまうのですが、ここからは最後の神事「山駈けの神事」が斎行されるそうです。
これは、上賀茂神社のご神体である神山に向かい、御阿礼所で祝詞を上げ、乗尻が馬に乗り一頭ずつ駆け抜けて神を慰め鎮めるというものらしいのです。
もともと葵祭は、凶作が続いた6世紀の中頃、賀茂神の祟りを鎮めるために、鈴を付けた馬を走らせて、五穀豊穣を祈ったのが始まりと伝えられているので、この神事はまさしく原型に近い姿と言えます。
来年の葵祭は日曜日なので、より多くの人が楽しめそうですね。

祇園祭発祥の地と神泉苑祭

5月7

sinsen 川床が始まり、大型連休中の京都はあちこちでイベントが目白押しでした。どこに出かけようか迷われた方も多かったのではないでしょうか。
神泉苑祭」もその一つで、最終日には平成女鉾清音会による祇園囃子の奉納がありました。
貞観年間(859~877)に都を中心に全国で疫病が流行り、その霊を鎮めるため当時の国の数に相当する66本の鉾を立て、神輿を神泉苑に送る御霊会が行われました。
後にこれが町衆の祭として、鉾には車輪や装飾が施されるようになります。
神泉苑が祇園祭発祥の地と呼ばれる所以です。
瑞々しい新緑と満開の躑躅に縁取られた法成就池の畔、本堂にて最後の演奏が始まると、天まで突き抜けるような能管や鉦の音色に雨雲が刺激されたのか、次第に雨粒が落ちて来て、やがて本降りとなりました。
ちなみに、神泉苑の池に住むという善女龍王はもともと、弘法大師空海がここで祈祷によって北インドから呼び寄せ、雨乞いを成功させたという言い伝えがあります。
今月になって降雨の少なかった京都にとっては、正に恵みの雨!
観客は仮設テントや傘の下で身をすくめて奉納演奏を見守りました。
その帰りの道中も、嵐の様な横殴りの通り雨にすっかりずぶ濡れになってしまい…神泉苑のパワーを痛いほど実感させて頂きました。

鼻も鎮める!?やすらい祭

4月22

yasuirai 先日訪れた常照寺の帰り道に今宮神社に寄り、「やすらい祭」を見物してきました。
子鬼や赤と黒の大鬼、囃子方等に扮した氏子たちがそれぞれ「上野やすらい」と「川上やすらい」となって、鉦や太鼓を打ち鳴らしながら花傘と共に時間差で境内数か所と氏子地域で「はなしづめ」の踊りを奉納します。今宮さんの踊りは今宮神社の東門を出たあぶり餅屋さんの前でも舞われ(16時頃でした)、床几に腰掛けて美味しいあぶり餅を食べながら観られたお客さんは幸運ですね。 →動画はこちら
平安の昔、桜が散る頃に疫病が流行したため、花と共に飛び散る疫神を鎮める「鎮花祭」としての意味合いを持つお祭りです。
確かに、三寒四温に花冷えの折は寒暖差が激しく、体調を崩しやすいもの。現在で言うならば、鎮めたい病とは花粉症でしょうか。
上賀茂のやすらい祭は、来月の葵祭の日(5月15日)も行なわれます。

常照寺・吉野太夫花供養

4月13

tayu 昨年の葵太夫さんに引き続き、嶋原に10代の若い「桜木太夫」さんが誕生しました。
伊藤博文の寵愛を受けていたという名花の源氏名を引き継いだ桜木太夫さんは若雲太夫さんの姪で、幼い頃から禿(かむろ)として島原に関わり、小学校から習い事を始めて、日本舞踊や茶道、琴をたしなんできたそうです。
その襲名報告も兼ねた12日。鷹峯の常照寺門前に春風が通り抜けると、太夫道中を待ちわびる人々の歓声も、桜の花びらと共に舞い上がります。
桜木、薄雲、如月の三太夫が連なって、胸を張り内八文字をゆっくりと踏み進める姿は壮観でした。
立礼席でお茶を点てる薄雲太夫さんの笄の上にも、薄紅色の枝垂れ桜が降り注ぎます。
境内にある様々な品種の桜は、例年ならば順番に咲いていくそうですが、今年は一度に花開いたのだとか。
煎茶席や遺芳庵席も巡っていたため、若雲太夫さんのお点前や墓参を観るのが叶わず残念でしたが、一度に5人もの太夫さんに会える催しは貴重だと言えます。
また、吉野太夫墓所近くの開山廟では古参の花扇太夫さんが撮影に応じていました。華やかな席は若い太夫に譲るものの、年齢を重ねても今なお人々の憧れの花であり続けている事を物語っていました。

八幡・背割堤の桜と「石清水灯燎華」

4月6

iwa  今年の桜見物第二弾は、八幡市へ出かけました。
人もまばらになった夕方の背割堤で、鶯のさえずりが聞こえる桜のトンネルをのんびり歩いた後は、石清水八幡宮の夜間特別参拝「石清水灯燎華」(5日で終了)へ。
昼間に雨が降った日曜日の夜だったので、こちらも人影が少なく、暗闇に白く浮かぶ上がる桜と燈篭が本殿へと導きます。
お祓いと巫女さんによるお神楽を受け、神職さんと共に周囲も巡りながら二棟の建物を前後に連結させた「八幡造」の社殿についての説明に耳を傾けます。
社殿を囲む瑞籬(みずがき)の欄間彫刻は、日光東照宮でもその腕を発揮した左甚五郎一派の作と伝えられており、その中のカマキリは、祇園祭の「蟷螂山」のカマキリのモデルになったのだとか。
また当宮は「八幡山」など祇園祭との縁も多く、町衆と神職が相互に参詣するなどの交流があるそうです。
社殿内部は他にも、雨漏り対策として織田信長公が寄進したという「黄金の雨樋」(現実的な寄附ですね!)や、現在の八幡市駅前にあったという神宮寺・大乗院(元寇に際して祈祷が行なわれ、神風を吹かせたとも)から戊辰戦争の兵火を逃れて石清水八幡宮に運び込まれたという寺宝の一つ「篝火御影」の掛け軸(8年前に発見されたばかり。臨戦態勢ばっちり僧姿の八幡神!)など、武運の神として日本を代表する為政者達からの信仰が形となって現れていました。
石清水八幡宮の「男山桜まつり」は今月末まで開催されており、昇殿参拝は大晦日まで可能ですが、12日までは一日に5回行なわれています。

洛中洛外図

3月24

raku 先月末に立命館大学で開催された土曜講座「洛中洛外図を読む」を聴講してから京都文化博物館の「京(みやこ)を描く-洛中洛外図の時代-」展を観に行ってみました。
「京中図/画京中」や「みやこ尽くし」とも呼ばれたこれらの作品は、都を東西に分ける様に右隻と左隻に別れて更に四方に四季を持たせ、その季節に沿った祭礼行事を展開させています。
まるで観光パンフレットの様に、京都という町を憧れの理想郷として紹介するほか、当時の政治情勢や風俗、町中や田舎の建築様式等を知る上でも重要な資料にもなっています。
一方、「京の真景」の章で紹介されている江戸後期の屏風や図巻になると、金雲が取り払われて広大な田園風景が広がり、よりリアルな京の町の上空を、まるでヘリコプターから眺めているような気分になります。
なんといっても洛中洛外図を観賞する際の最大のお楽しみは、描かれた人物の生き生きとした姿でしょう。
「洛中洛外図」が描かれるようになったのは、応仁・文明の乱の後の時代のこと。町が荒廃し「リセット」され、そして復興を遂げた京都の姿でもあるのです。
国立歴史民族博物館のホームページには、後期展示の『洛中洛外図屏風「歴博甲本」』に登場する1426人の人物について検索する事ができるそうです。
さて、ここで細部を覗いてから実物を観るか、実物を観てから検索するか!?
いずれにしても、この展覧会に双眼鏡は必須です!

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