e-kyoto「一言コラム」

ガイドブックには載っていない、スキマ情報をご紹介していきます。

それぞれの祈りの祭典

7月27

kuji3年ぶりに行われた祇園祭の後祭山鉾巡行
先立つ20日の曳き初めでは、東西の通りにある鷹山と、南北の通りに建つ北観音山が、三条新町にて大接近し、お互いの囃子方と車方が思わず挨拶を交わすという微笑ましいハプニングもあったそうです。
巡行本番では、鉾町を出発した鷹山が、御池通りに出るまでに、電線ぎりぎりのところで最初の辻回しをするシーンでは、町内の床屋さんが、大量のお水の提供をしていました。
2014年に大船鉾が復帰を果たしたときに沿道から聞こえたように、進む鷹山に向かって「お帰りなさーい!」と大声で叫びたかったです。

2022年の祇園祭は、前祭は連休、後祭は鷹山の復興という大きな話題もあって、
この日を待ちわびた多くの人が祭に繰り出しました。

しかしながら、引いては押し寄せる疫禍の中です。
知人達の中には、自身やご家族の体調を考慮して、参加が叶わず断念した人もいました。
また、外出を控え自宅の中で祇園祭のしつらいを楽しむと決めた人もいました。
それもまた、ひとつの賢明なご判断だと思います。

漆がまだ塗られていない白木の香りや
脳天に響く鉦の音までは再現できませんが、
こちらの動画で鷹山への搭乗を体験してみてください。

75歳に何を思う

6月22

tuji陶芸家 辻村史朗」展の最終日に滑り込みで行って来ました。

特に茶の湯に係わる人の中で著名な陶芸家である事は知っていたし、白釉の茶碗を「きれいだな」と眺めた事もありましたが、その人となりを知ったのは初めてのことでした。
冒頭に「作品は作家自身の内面の人間性と共に評価される」といった趣旨のコメントにあった通りの展覧会でした。

洋画家を志す道半ばで自己を追求したいという思いが募って禅門を叩く。
京都では大原を最初の創作活動の拠点として京都市美術館の前や道端で作品を売ったりしていたそうです。
名も無き大井戸茶碗に感動し、師匠を持たず独学で作陶の道に進み、妻と共に人里離れた山間の奈良県水間町に自宅兼アトリエを一から作り上げて創作に没頭する。
常に「今」の自分の心の声に素直に耳を傾け、その声に従って自らを真っ直ぐに導く「あるがまま」のシンプルな生き様。
多くの人が憧れと親しみを持っているのが、おもてなしにも使われた自宅の食器からも伝わってきます。

奇しくも父の日。同行した父親は70歳ですが、辻村氏が75歳を迎え、創作の対象を茶碗のみに絞って創り続けているというところが心に留まったようです。
父の兄が75歳で職場の第一線から退き、若い頃程には自由の利かなくなったその後ろ姿を見ているので、75という年齢はこれまで持っていたものを削ぎ落し、本当にやりたい事に向かって行こうという気持ちが沸き起こってくるものなのだろうかと話していました。

当展覧会に引き続き、祇園のギャラリー「ZENBI-鍵善良房-」では「辻村史朗-茶盌 TSUJIMURA SHIRO 100 WORKS」展が開催中です。

2022年6月22日 | 芸能・アート | No Comments »

薄暗さの心地よさ

5月11

ma 東寺から南へ少し下がったところに、「日本茶空間 間」があります。

まるで旅館のようなエントランス(誰もいませんが)を通り中へ入ると、アンティークショップの様な茶器とオリジナルの食器、統一化されたパッケージのお茶や毛筆で書いたひらがなを模したピアスなど、お茶にまつわる商品が並んでいます。

カウンターやテーブル席のある部屋に入って暫くしてようやくお店のスタッフが現れ、試してみたかった「お茶をかけて食べるお茶漬け菓子 茶妙」をお願いしました。
3種のお品書きから選んだのは、「いと達」製の薯蕷饅頭に、温かい玉露を注いで頂くもの。
オリジナルな和菓子と玉露という高級茶との組み合わせなので、なかなかのお値段です。
「映えそうではあるけど、本当に美味しいの?」と少し懐疑的に口に運びましたが…「これは”あり”かも」と思いました。

温かいお茶が、中が透けるほどに薄い薯蕷饅頭の表面をやわらかく撫で、ふやけた皮の中の餡をお茶に浸します。
旨みの強い玉露はまるでおだしのようで、糖度20%のあんことよく合いました。

他にも抹茶をかけるもの、葛まんじゅうに釜炒り茶をかける季節限定のものもありました。

もとは炭問屋だったという、町家や蔵のような古い建築で、陽の光が入るところだけ眩しく輝いています。
壁もお皿も真っ白で眩しいお洒落なカフェが苦手な自分にとっては、
高い天井から薄暗い空間を身体が沈んでいくように、心が落ち着いてニュートラルな状態になっていくのを感じました。

日本茶の香りをベースとした「パーソナル調香」が毎週金曜日にあるそうなので、また足を運んでみたいと思います。

人形はお守り

4月26

musha
我が家に五月人形がやってきたので、お雛様と交代で飾っています。
やんちゃな盛りの怪獣たちの手の届かない玄関に飾れるケース入り。
鯉のぼりは、今後のお空と相談して挙げる予定です。

お雛様と同様に、武者人形や兜には、その子の身代わりとして災厄を引き受けたり、護ったりする役目があるので、子供が幾つになっても飾って良いものなのだそうです。
数年前に、不注意による事故で子供を救急搬送したことがあり、その際に家に飾ってあった小さな京陶人形の童大将の人形を「人形(ひとがた)」のつもりで、思わず手に持って同行しました。
そんな経緯で人形の顔や身体には擦れた跡が付いてしまいましたが、今も元気におもちゃで遊んでいる我が子のそばで、毎年その小さな大将を手に、気持ちを新たにしています。

今年のまだお雛様を飾っている期間中、妬きもちなのか、息子が「ぼくのお人形も出して」とせがんだので、「もう少ししたら飾ってあげるから、今だけね。」と箱から出して持たせてあげました。
ふっくらとした小さな両手にそっと載せて、嬉しそうな顔。子供にも何か伝わるものがあるのかもしれません。

武者飾りは飲食店でも飾られていることが多く、5月から本格シーズンを迎える川床のあるお店で見かけることもしばしば。
破魔弓や刀飾り等一般家庭ではなかなかできないような、立派なお飾りを垣間見る事ができそうですね。

「日本のあそび」曲水宴

4月11

kyoku
上賀茂神社の渉渓園に一歩踏み入れると、濃厚なお香の香りを感じて思わず振り返ると、山田松香木店が「薫物(たきもの)」をされていました。
薫物の演出は『源氏物語』等の古典文学にも記されており、今年は染殿后藤原明子の「梅花」をもとに、昔ながらの調合方法で調整されたものだそうです。

「ならの小川」からの分水が流れ、木漏れ日の中には客席が設けられ、そよ風に汗ばむ程の陽気も忘れてしまうほどの心地よさ。
受付から開宴までの合間に、たまたま居合わせた和歌をたしなむという方とならの小川の畔に腰かけて、せせらぎの音に耳を傾けながら昼食を取りました。

「五・七・五・七・七」のリズムを持つ短歌と和歌と違いとは。
和歌には型というものがあり、いわゆる「現代短歌」は、明治以降に入ってきたもので、芸術として自我を表現するものだそうです。
令和元年に選ばれた斎王代が十二単の袖を引いて現れると、場が一層華やぎ、客席も色めき立つのが伝わってきます。

薫物は二箇所であり、遮る物の無い開けた庭園であっても、披講の抑揚ある調べに載せるようにリズミカルに濃淡を変えながら香りが漂っていました。
曲水宴は、中国の禊祓の行事が日本流にアレンジされたもので、自然の中に身を置き、香を焚いて雅楽とともに場を盛り上げ、歌を詠む順番さえも羽觴(うしょう)を運ぶ遣水(やりみず)の流れに任せるという、まるで王朝文化への憧れを投影した「日本のあそび」を象徴するような催しでした。

宴の後は、斎王代が境内の斎王桜の前で美しい立姿をみせてくれました。

月を観たか?

3月2

ao 西陣の興聖寺。
堀川沿いにあるため、前を通りがかったことのある人も多いかもしれませんが、「京の冬の旅」キャンペーンとしては40年ぶりの公開だそうです。

仏殿の天井に描かれた「雲龍図」、わざわざ螺旋状の石段を降りたところにある「降り蹲踞」、目にも鮮やかな、フィジーの海中写真を襖絵に仕立てた『青波の襖』や四季折々の草花を描いた天井画、茶道織部流の祖でもある武将・古田織部の院号を冠した茶室「雲了庵」と織部の木像など。
「ここまで“映える”お寺だったとは….古田織部が現代に蘇ったら、目を丸くして喜ぶかもしれない。」
などと妄想しながら、景気よくカメラのシャッターをパシャパシャ切っていました(※仏殿や茶室は撮影不可です)。

別の日に訪れていた友人のSNSによって、仏殿に「指月標」と書かれていたことを知りました。
「月を示そうと指をさしても、肝心の月を観ないで指を見る。(目先のことに囚われず遠くを見よ)」との意味だとか。
“映え”を気にして記録に残す、見せることばかりに熱心な自分は、ここで何を受け止めただろうか…。

伽藍を出て門へと帰る途中に、立派な枝垂れ桜の木が佇んでいました。
春本番になれば、きっと見事な桜の振袖を見せてくれることでしょう。
この先、このお寺が再び一般公開されるのは何年先となるでしょうか。

日本を元気にする招き猫パワー

2月23

neko
2022年2月22日は「スーパー猫の日」という言葉がにわかに流れてきて、ふと思い立って八瀬にある「猫猫寺(にゃんにゃんじ)開運ミュージアム」に行ってみました。
八瀬比叡山口駅から川に沿って15分程歩きますが、着いてみると駐車場が広い!
中に入ると、これまでの静かな道のりからは想像つかないほど、猫グッズを求めて列を成す人々の熱気が境内(?)にありました。

猫がたくさんいる猫カフェみたいなところかと思い込んでいましたが、現在はカフェとしての営業はされていません(ドリンクのマシーンは有り)。
袈裟風のよだれ掛けを身に付けたもふもふの猫住職見習いのマヨちゃん以上に、猫グッズと猫作家・加悦雅乃さんの作品がどこに目をやっても入ってくるのでした。
幼少の頃より絵画にのめり込み、11歳から猫を描く作家として活動を始め、11年間で16点の作品が国内外で入選・受賞されている雅乃さんの22歳記念を兼ねて個展が開かれています。
5月までの期間中は、普段は特別拝観の人しか入れない地下の「22GBar」に無料で入場できるのですが、洋風アンティークな空間で上階とは別世界でした。
作風は、あふれるままにキャンバスに塗り込んでいくような、素直な発想のものばかり。京都の名所と猫を描いたポストカードもありました。

複数のテレビ番組から取材を受けているらしく、お寺の前にはたくさんの器材が。
招喜猫(まねきねこ)宗総本山に祀られる大日猫来(にゃらい)を前にオリジナルのおみくじを引く人や御朱印を求める人まで。
恐るべし猫好き人の購買力。社会福祉施設の利用者の作品の販売や就労支援等も行われているようです。
日本の経済はにゃんこが回す!!

歩みを止めない理由

2月1

hana今年もお茶の初釜に参会することができました。
ここ数年、密室の空気が澱むのを良しとしない情勢なので、さらさらと柔らかく溶いた濃茶は恒例の回し飲みはせず個別に点てられるなど、風情を損ねることなく場が効率良く流れていくよう創意工夫がなされていました。

茶道は「総合芸術」とよく言われます。
和服に袖を通し、手入れされた露地を進み、様々な調度品にしつらえられた中で、茶器に触れて、その場の仲間と共に抹茶を頂きます。
その環境や工程の中に、どれだけの職人さんや若手作家の手仕事が盛り込まれているか、想像してみてください。
疫病下でも師匠がお茶をやめないのは、そのような日本の文化を下支えする人々の仕事を凍結させないためでもあると、個人的に解釈しています。

毎年の同じ場所で仲間と時間を共に過ごすことは、飛花落葉の中で自分自身はどの様であったか、振り返る機会でもあります。

仕事でも日常でもない時間。
程よい緊張感の心地よさが味わえる時間を持ってみませんか。

伝統を突き詰め未来を拓く

1月25

nendo   久しぶりにしっかりと雪が積もった平日の二条城
『「nendo×京都の匠展」-NENDO SEES KYOTO-」』の暗闇の会場の中では、人と行き交うこともなく作品を観ることができました。
nendo」というデザインオフィスの名前に馴染みの無い人でも、「2021年の東京オリンピック・パラリンピックの聖火台をデザインした」と聞くとピンとくるかもしれません。

風神と雷神を描かずして京指物と彫刻の技術で木格子を立体的に表現した宮崎家具の「風神雷神図屏風」。
「植治」の次期十二代・小川勝章氏が選んだ京都府亀岡市産の春日部石等の一部を内装用木材に切り替え、更に引き出しを仕込んで家具にすることで「外で鑑賞する庭石」から「屋内を庭園化」した石。
強度の高さと丈夫さが特徴の京提灯にあえて「弱さ」という因子を加え、竹ひごに関節の様な可動性を持たせることで「裏表をひっくり返して姿を変えられる」小嶋商店の提灯。
漆を塗り重ねて蒔絵を施すのではなく、逆に下地を削り出し、工業用技術「サンドブラスト」技術を用いて四季を表した十三代中村宗哲氏の4つの棗。
京釜師・十六代大西清右衛門氏の伝統技法と最新の金属加工技術を組み合わせた器や、まるで編んだような曲線と香りの変化や融合が楽しめる松栄堂のお香。
これらの作品群の面白さは製造工程にあり、会場各所に展示してある解説と映像はぜひとも観て頂きたいところです。

樂焼の十五代・直入さんの茶碗は、ワインやハーブティー等の色素をチューブを通して茶碗に染み込ませて色付けるなど、「器で飲む」はずが「器が飲む」という、茶目っ気のある展示でした。
「nendo」代表の佐藤オオキ氏は、大阪・関西万博の日本政府館の総合プロデューサーにも就任しており、京都のお隣の「府」で開催のイベントということで、これからの活躍が注目されますね。

神仏か、鬼か、亡霊か

1月18

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京都駅ビル内にある美術館「えき」KYOTOで、「能面100 The Art of the Noh Mask」が開かれています。

「能面の様な」と書くように、しばしば「無表情」の代名詞とされてしまう能面は、馴染みの無い人にとってはどれも同じに見えてしまうかもしれませんが、この様に系統立てて100面もの数を見比べると、さすがに違いを肌で感じられるのではないでしょうか。
それぞれ解説にはどんな演目で使われるのかあらすじが書いてあるので、京都が舞台となっているものなど、実際にその演目を観てみたくなる人もいるかもしれません。
能面が観る角度によって喜びや哀しみを表現できるというのはよく知られるところですが、髪の乱れや皺の深さ、目の金泥の有無など、人間の複雑な精神状態を表現するために細部の造形から演目に合わせて慎重に選び取られているのが分かります。

豊臣秀吉が作らせたという「花」「雪」「月」の小面のうち、 金剛家に伝わる「雪の小面」と久しぶりに対峙すると、やはり別格だと感じずにはいられませんでした。
その肌にうっすらと、まだ誰にも触れられていない雪を載せているような、雪が積もった日の静けさのような繊細さに顔を沈める瞬間とは、一体どんな心地なのでしょうか。

能が成立する以前から呪師が儀式の際に掛けていたという神面の「翁」など、基本的に面をかけないで演じる狂言も、神聖な存在を演じる際には面を用いるほど、面というものには神が宿る依り代のように大切にされてきました。
学業、出世の神・菅原道真を神格化した天神の面もあり、身近に受験生がいる人にとっては有難い出逢いとなるかもしれませんね。

冒頭のスティーヴェン・マーヴィン氏による寄稿が、能面の持つ特異性を分かりやすく紹介しており理解が深まるので、鑑賞前には必見です。

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