e-kyoto「一言コラム」

ガイドブックには載っていない、スキマ情報をご紹介していきます。

三栖の炬火祭

10月12

misu 3連休の中日、伏見稲荷大社の「千本鳥居灯籠」を見届けたのち、中書島へ。
毎年10月の第2日曜日に斎行される三栖(みす)神社の「三栖の祭り」。
その神幸祭の行事のひとつとして行われるのが「炬火祭」(たいまつまつり)です。
駅から徒歩6分のところにある三栖会館のところには、長さ約4mはある巨大なブロッコリーのような大炬火が立てられ、例年の和太鼓に代わり、今年は祇園祭の鷹山保存会がお囃子を奏でていました。

地元の人々が見守る中、三栖神社の御旅所・金井戸神社から剣鉾や高張り提灯、炬火、神輿で構成された神幸列がやって来ます。
祇園囃子の調子が上がり、浜三栖若中(わかちゅう)の法被を着た氏子達が大勢で約1トンもの重さの大炬火をゆっくりと降ろし、大松明に火が灯され、「あ~、よいよいよ、」との掛け声と共に竹田街道を北上していきました。

直径約1.2mもある大松明はまるで「歩く火事」。
しかしながら、その激しく燃え盛る輝きは人を惹きつける神々しさがあり、氏子でなくとも吸い込まれるように後を追いたくなります。
濠川にかかる京橋上で沈火された後は、燃え尽きてばらけた葭を厄除けとして拾い、銘々の家へと帰って行きました。

三栖の炬火祭は、少なくとも元禄13年(1700)には行なわれていたそうで、京都市登録無形民俗文化財に指定されています。
外国人観光客の姿も殆ど見られない、まだまだ地域色の強いお祭。
もっといい絵が撮れるように、来年も行きたいと思いました。
動画は後程アップしますね。

「この景色」が撮りたくて

8月2

motomiya
伏見稲荷大社・本宮祭(宵宮祭)

京都の観光地や催しを撮影していると色々あります。

ベストな撮影場所を求めて、早朝から場所を取って待機していたのに、始まる直前になって報道陣が目の前に現れて視界が塞がれてしまったり、音を拾うためのテレビ局クルーのマイクが目の前に伸びてきて真正面に映り込んでしまったり。

早くから現地入りをして、「神聖な儀式の場だから」と少し遠慮して下がってカメラを構えていたら、後から来た背の高い外国人が前に入って来て長い腕でスマートフォンを掲げたまま動画撮影を始めてしまったり。

「ああ…」と思わず深いため息が出てしまうこともしばしば。
中には怒りを露わにして、前にいる人に向かって声を上げる人もいたりします。
「寺社は神聖な祈りの場なのだから、撮影スポットでは譲り合うべきだ」とネットで語る人もいました。

自分の中にもそんな感情が沸き上がりそうになる事もあります。でもそんなときは、
「分かる…!分かるけど…寺社は撮影をしに来る場所じゃないんだよなあ」
「ほら、フォトジェニックな景色を撮らんがために、仏神にすっかりお尻を向けて、お賽銭すらしていないじゃないか。」
と自分に言い聞かせて戒めています。

ガイドブックに掲載されているのと同じ景色を撮ることに、みんな必死。
でも、同じアングルの、似た画像が大量生産されるのってそんなに価値があるでしょうか?

エピソードよりも先に、SNSの画像から直感的に旅行先のプランを立てる傾向も主流になりつつあります。
自分の個人的なSNSでも、外国人の方から度々尋ねられることも出てきました。
撮影場所だけでなく+αの情報も添えて、文化的な背景も知って欲しいな、と願いながら返信をしています。

2023年8月02日 | 未分類 | No Comments »

何人もの背中

8月10

3dai 先日は、親子3代競演を楽しみに、金剛能楽堂へ。

能楽金剛流の若宗家・龍謹さんが幣を振り舞う三輪明神に、お祓いを受けたような気持ちになりました。
およそ2時間もの長い『三輪 神道』という大曲を演じ切られるとは、凄まじい集中力です。
昔は、恰幅の良いご宗家永謹氏が大きく、うら若い龍謹さんが華奢に見えたこともありましたが、今度は体格も声の大きさも反対のように見えました。

半能『岩船』で、初シテを務める6歳の謹一朗くんが橋掛かりに颯爽と現れた瞬間から、自分の涙腺が緩みそうになりました。
まだ小さいけれど堅く握りしめた拳を前に出し、大勢の大人たちに囲まれた重圧の中でも、正確に流麗な円を描いて舞う姿に大変驚きました。
そして、ご両親に似て、端正なお顔立ちです。

金剛流26世宗家の永謹さんが息子の龍謹さんを、また孫の謹一朗くんを若宗家の龍謹さんが背後で見守る表情は厳しいものでした。
伝統の重みに対峙する真摯な志の連なりは、3代だけのものではないからです。

16日は「大文字送り火能」。 蝋燭を灯し、いつもより薄暗い環境で、夏の夜に背筋が凍るような演目が毎年採用されています。
ことしの演目は『善知鳥(うとう)』。地獄で責め苦を与えられるという演出が能楽ではどう表現されるか、注目です。

27日、9月3日には「日本全国能楽キャラバン! in 京都」があり、京都市出身の世界的指揮者・佐渡裕氏、伏見稲荷大社宮司の舟橋雅美氏と、それぞれのゲストが上演曲にゆかりのある講演をされる予定(10月30日は東本願寺能舞台が会場)です。

伏見稲荷大社のいま。

11月18

inari
以前は毎回稲荷山の山頂まで登って月参りしていた伏見稲荷大社
ここ数年は代わりに地元のお稲荷さんをお参りしていました。

かつてはここに日本人がいるのか?と思うほどに外国からの訪問者が多く、千本鳥居前になると片道通行を促す横断幕や立て看板まで登場し、数珠繋ぎの行列ができていました。
先週金曜日に久々に訪れた時点では、随分人口密度が下がっていましたが、静まり返っているわけでも無く、程良い賑わいでした。

手水鉢や本殿前の鈴は使用不可となっており、屋台も営業しているお土産物屋さんも以前よりは減っていますが、土日となるとまた異なるのかもしれません。
4月1日から本殿の東側に高齢者や車椅子利用者用のエレベーターやスロープが設置され、階段を使わずに奥社奉拝所まで参拝できるようになりました。
かねてより整備されていた八島ヶ池の周りの植栽も良い塩梅に伸び、それらを眺めるように設けられた床几やテラス席のある休憩所「啼鳥菴」も、お山巡りの足を休めるのに好立地です。

ちなみに、稲荷山に点在する幾つかのお店では絵葉書が販売しており、奥村亭では切手を貼ってポストに投函する事ができます。
このポストに出された絵葉書は伏見稲荷の風景印が必ず押印されるそうですよ。

色々な変化を目にして、また新鮮なお参りとなりました。
赤くなり始めた紅葉が虹のように弧を描いていたので、今週末は朱色の千本鳥居との競演が見られるかもしれません。

京に眠る遺跡パワー

6月28

saiji  京都を何度も訪れている人でも、新幹線の窓から東寺の五重塔が迫って来ると、毎回気分が高揚するといいます。
平安京の時代、羅城門を挟んで東寺と対称に位置していた西寺があり、空海が真言密教の道場として発展させ、今や世界遺産となった東寺に対して、守敏が鎮護国家の官寺として発展した西寺は、度重なる火災と国政の衰微を経て廃れてしまいました。
その跡地に降り立ってみると、予想通り、西寺跡石碑や復元整備された礎石や案内板のみとなっており、芝生の小さな丘の上で野球に興じる少年達が歓声を響かせていました。
平安京に関する書物を読み、存分に想像力を働かせてこそ楽しめるのは言うまでもありませんが、西寺の台所であった大炊殿跡に中華料理屋が建っているのがご愛嬌。この前身のお店も料理屋さんだったそう。
西寺児童公園の北側にある鎌達稲荷神社は、伏見稲荷大社よりも歴史が深く「元稲荷」とも呼ばれ、平安期の陰陽師・安倍晴明の子孫である安倍家、土御門家の鎮守社なのだそうです。ここのサムハラ呪符は奇蹟を生むお守りなのだとか。
ちなみに、2013年には京都府八幡市美濃山の「美濃山瓦窯跡群」で、西寺跡周辺で発見された瓦と同じ「西寺」の押印がある瓦が1点出土したというニュースもありました。
現存する木造塔として最高の東寺の五重塔。同規模だったとされる西寺にも立派な塔が建っていた可能性も考えられます。
いつの世も、あらゆる国で、そびえ立つ塔は人の心を惹きつけてやみません。
国の災いを引き受け、姿形は失われてもなお、人の足を運ばせてしまう遺構の数々
京の土の下からはまだ、何らかのパワーが秘められているのでしょうね。

神様のゴールデンウィーク

4月25

iwami 伏見稲荷大社の稲荷大神は、一足先にゴールデンウィークに入っておられます。
先日の神幸祭で神輿に乗って本社を出発し、東寺近く(JR京都駅南西方)にある文字通り「御旅所」にて3日還幸祭までバカンス中なのです。
ご鎮座されている間、氏子達は様々な芸能を奉納してもてなします。
先週末に行なわれた石見神楽もそのうちの一つ。  動画はこちら
こちらでは島根県浜田市由来の石見神楽の短縮版とも言える内容で、須佐之男命(すさのおのみこと)が大蛇を退治する場面で、程良い尺度で楽しむ事ができました。
大蛇は、獅子舞を長~い蛇腹にしたような形をしていて、とぐろを巻いたり串団子のようになったり、酒を樽ごと豪快に取り込んで飲み干し酔い潰れたりと、まるで台風の様に形状を変えて観客を楽しませます。 動画はこちら
聞こえてくるリズミカルなお囃子に誘われて、裏手に住む近所の子供達も窓際で小躍り。
境内には幾つかの屋台からいい匂いが漂い、29日の夜にもマジックや六斎踊りが披露さます。
また、3日の環幸祭(おかえり)では、五基の神輿が数々のの供奉列奉賛列を従えて東寺にて僧侶による「神供」を受け、約2時間氏子区域を巡行した後に伏見稲荷大社の本殿へと還られます。

伏見稲荷大社の呈茶所「松の下茶屋」

8月31

matu 非公開文化財特別公開の際に何度か公開されていた伏見稲荷大社お茶屋の一部が、6月から呈茶所「松の下茶屋」として開放されています。
お品書きはお茶と和菓子のセット(1200円)のみで、訪れた時の飲み物は、抹茶と水出し煎茶、グリーンティーの中から選ぶようになっていました。
もとは当社の官舎であったのが後に料亭として使われ、再び大社が買い取ったという経緯があり、御所由来と言われるその風格漂う造りやしつらいに名残があります。
洋間もある屋敷の廊下を渡って大広間に足を踏み入れると、眼前に緑豊かな庭園が広がりました。
稲荷山から降りて来たばかりの火照った身体に、氷を浮かべた冷たいお薄や、甘みが濃厚に引き出された煎茶が喉をすうっと通り抜けていきます。
境内はたくさんの人で賑わっていますがこちらは静かで、かといって客足が絶えることも無く、すっかりお茶を飲み干した客人達は、銘々にぼんやりとお庭を眺めながら、心身を潤している様子。
5名以上の希望があれば、二階でお茶席を開いて下さるそうです。
お昼は賑やかなお稲荷さん参道の茶店できつねうどんや稲荷寿司などを食べ、お山を巡った後は松の下茶屋で庭と茶碗の緑でクールダウン、という参拝計画もいいですね。
土日と祝日、毎月1日限定の営業です。

伏見稲荷大社・初午大祭

2月16

hatuuma 伏見稲荷大社の誕生日ともう言うべき初午の日。今年は祝日とも重なり、大変賑わっていました。
奥の院から稲荷山に入り、中腹の休憩スポット・四ツ辻までの細い山道では、時折行き交うのが困難になるほど。
初午のお参りは、平安時代から既に人気だったようで、かの有名な清少納言も初午の日の暁から稲荷山に登り、その道中の大変さに「泣きそう」と枕草子にもらしたと聞きます。
生まれてはいつの間にか消えていくのが流行の常なのに、ご鎮座から1300年もの月月を経た現在でも、日本のみならず海外からの参拝客も増えているという、お稲荷さんの求心力、恐るべし!
もとい、稲荷山の周辺は渡来系豪族の秦氏が住んでいたので、境内に多言語が飛び交っている様子は、もしかしたら創建当初もそうだったのかもしれません。
ひな壇の様に飾られた色とりどりのお供え物もぎっしり。
本殿や摂末社には、稲荷山の杉と椎の枝で作られた“青山飾り”が青々と輝いて、清々しい華やかさを添えていました。

何を変え、何を残すか

12月24

inari 2014年7月に世界で最も影響力のある旅行雑誌「トラベル・アンド・レジャー」において、「世界で最も行きたい都市、憧れの都市」として「ワールドベストシティランキング1位」に選出され、そして2020年の東京オリンピック・パラリンピックの開催に向けて、外国人観光客の更なる増加が見込まれる日本の古都・京都。
京都には、既存の観光地をより外国人観光客に利用しやすい様に整備する動きや、既にある観光資源を活かして新たな価値を創出する動きが出てきています。
例えば、旅行口コミサイト「トリップアドバイザー」による外国人観光客に人気の日本の観光スポットで2013年度の1位になった伏見稲荷大社では、駅から社へ多言語が行き交う道中に、いつの間にか手荷物預かり所(おそらく英語対応可?)ができていて、近くのカフェで寛いでいると、海外から京都に来た旅行者に、英語で道案内をするボランティア「あっちこっちプロジェクト」の一員だという人とも出会いました。
また、戦後まで琵琶湖疏水の大津市~京都市間を往来した通船を観光用に復活させるという構想がとうとう、2015年3月下旬から試験運航を実施する段階に入りました。
試験運航は京都市民や観光客から参加者を募って5月の大型連休頃まで行われ、採算性等を見極めた後で本格実施に入るそうです。
いずれも、先人達が京に残してきた遺産が確固たる地盤となっていて、そういう観光資源がコンパクトに集約された京都という街は、本当に恵まれた都市だと言えます。
「おもてなし」という言葉を聞くと、つい至れり尽くせりのサービスを提供することだと勘違いとしてしまいそうですが、これから大切なのは「何を改良し、何をそのまま残すか」。
そのさじ加減ではないでしょうか。その為には、日本人が自国についての理解を深める必要があると思います。

深草の桜

4月9

sidan 先週土曜は、「墨染桜」の咲く墨染寺を目指して、伏見稲荷大社近くから琵琶湖疏水沿いを歩きました。

 深草、藤森…と続く徒歩30分の道のりは、ところどころに頭上を覆うほどの満開の桜の木が植わっていて、地元の人が犬の散歩を楽しむような静かな遊歩道になっており、観光客の姿は殆ど見当たりません。
 特に師団橋の手前辺りの桜の木々は、疎水の水面すれすれにまで枝が伸び、優雅なカーブを描いていました。

 因みに、この「師団橋」という名前は、かつてこの深草近辺に大日本帝国陸軍の第16師団が置かれていた名残で、周辺の幾つかの橋桁には、五芒星のマークが今でも見られます。

 地元の人々によって行なわれているライトアップも美しいそうで、これからも開催されるといいですね。

« Older Entries